英米文学研究の先達
菅泰男とは何者か?
シェイクスピア研究の巨人が
日本英米文学に刻んだ足跡
1915–2007 | 京都大学名誉教授 | 文学博士
「シェイクスピアを日本語で読む」という営みは、一握りの先達の情熱なくしてはあり得なかった。 菅泰男(すが やすお、1915〜2007)は、その中心に位置した英米文学者の一人である。
京都帝国大学で英文学を修め、京都大学教授として長年にわたりシェイクスピア研究を牽引した菅は、 学術研究・翻訳・後進の育成の三つの軸で日本の英文学界に多大な貢献を残した。 92歳で老衰により逝去するまで、その知的探求は止まることがなかった。
生い立ちと学問の出発点──京都という土壌
菅泰男は1915年4月26日、古都・京都市に生まれた。 歴史的な建造物と伝統文化が息づく京都は、彼の知的感性を育てる格好の環境であった。
1939年、菅は京都帝国大学文学部英文科を卒業し、同大学院へ進学する。 当時の日本における英文学研究は黎明期にあり、第一次資料の多くは英語原典に当たるしかなかった。 そのような状況下でシェイクスピアという難題に向き合った菅の選択は、研究者としての骨格を決定づけるものだった。
大学院修了後は京都女子大学で講師として教壇に立ち、1949年8月には京都大学吉田分校助教授に就任。 教育者としてのキャリアと研究者としての深化が、この時期から本格的に重なり始める。
京都大学での研究深化と博士号取得
1953年5月、菅は京都大学文学部助教授に昇格し、シェイクスピア研究をさらに深めていく。 1961年7月には教授へ昇任し、名実ともに日本シェイクスピア研究の中枢を担う存在となった。
そして1962年、菅は「シェイクスピアの劇場と舞台」という論文で京都大学の文学博士号を取得する。 この研究はエリザベス朝演劇の空間的・物理的構造を精密に分析したもので、 単なる文学解釈にとどまらず、上演史・劇場史という視点を日本の研究者に示した先駆的業績であった。
翌年1963年には同論文を書籍として刊行(『Shakespeareの劇場と舞台』あぽろん社)。 日本語によるシェイクスピア劇場論の嚆矢として、後続の研究者たちに広く読まれることになる。
主要経歴一覧
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1915年 | 京都市に生まれる |
| 1939年 | 京都帝国大学文学部英文科卒業、同大学院進学 |
| 1949年 | 京都大学吉田分校助教授に就任 |
| 1953年 | 京都大学文学部助教授 |
| 1961年 | 京都大学文学部教授に昇任 |
| 1962年 | 「シェイクスピアの劇場と舞台」で文学博士号取得 |
| 1979年 | 京都大学定年退官・名誉教授。甲南女子大学・明星大学教授へ |
| 1991年 | 勲三等旭日中綬章を受章 |
| 1994年 | 大阪文化賞を受賞 |
| 1998年 | 京都市文化功労者に選定 |
| 2007年 | 6月5日、老衰のため92歳で逝去。叙正四位 |
翻訳家としての菅泰男──シェイクスピアを日本語へ
学術研究と並行して、菅は精力的な翻訳活動を行った。 その仕事は多岐にわたり、シェイクスピア作品から英米現代劇、さらにはイタリア文学の訳出にまで及んでいる。
特に注目されるのはシェイクスピア翻訳である。 岩波文庫から刊行された『オセロウ』(1960年)と『悪口学校』(シェリダン、1981年)、 新潮文庫の『十二夜』(1957年)、筑摩書房世界古典文学全集における『ヴェニスの商人』(1964年)と 『リチャード二世』(1966年)など、主要な出版社から翻訳を手がけた。
これらの翻訳は単なる言語変換ではなく、菅がシェイクスピア劇場論で培った 「舞台上の言葉」への洞察を生かした、演技と朗読に耐える日本語を目指したものであった。 岩波・新潮・筑摩という三大出版社への貢献は、菅の翻訳者としての信頼の高さを物語っている。
主な翻訳作品一覧
| 刊行年 | 書名 | 原著者 | 出版社 |
|---|---|---|---|
| 1946年 | パリへの旅 | イニヤチオ・シロネ | 世界文学社 |
| 1954年 | 彼女の夫に嘘をついたお話 | バーナード・ショー | 白水社 |
| 1957年 | 十二夜 | シェイクスピア | 新潮文庫 |
| 1958年 | パリを見て死ね! | マーテン・カンバランド | 東京創元社 |
| 1960年 | オセロウ | シェイクスピア | 岩波文庫 |
| 1964年 | ヴェニスの商人 | シェイクスピア | 筑摩書房 |
| 1966年 | リチャード二世 | シェイクスピア | 筑摩書房 |
| 1975年 | 楡の木の下の欲望 | ユージン・オニール | 白水社 |
| 1981年 | 悪口学校 | シェリダン | 岩波文庫 |
学会活動と社会貢献──制度を動かした英文学者
菅泰男の業績は研究室や書斎にとどまらない。 アメリカ学会会長、日本演劇学会副会長、日本英文学会理事という三つの学術団体での 要職は、彼が日本の英米文学・演劇研究の制度的基盤を整備した人物であることを示している。
1979年の京都大学定年退官後も、甲南女子大学文学部教授、明星大学人文学部教授として後進の指導を続け、 大阪府立国際児童文学館の館長・理事長も務めた。 英米文学の専門家が児童文学の振興機関を率いたことは、 菅が文学の裾野を広げることへの強い意識を持っていたことの現れであろう。
受賞・栄典一覧
| 年 | 栄典・受賞 |
|---|---|
| 1980年 | 菅泰男・御輿員三両教授退官記念論文集刊行 |
| 1991年 | 勲三等旭日中綬章 |
| 1994年 | 大阪文化賞 |
| 1998年 | 京都市文化功労者 |
| 2007年(没後) | 叙正四位 |
菅泰男が日本英文学に遺したもの
菅泰男の仕事を一言で表すならば「橋を架ける営み」であった。 エリザベス朝の劇場から日本の読者へ、シェイクスピアの英語から日本語の舞台言葉へ、 アカデミズムの知見から一般読者の書棚へ──菅はその都度、媒介者として機能した。
劇場論という視点は、シェイクスピアを文学として読むだけでなく、 「演じられるために書かれたテキスト」として捉える姿勢を日本に根付かせた。 この視点なくして、今日の日本における英国ルネサンス演劇研究の隆盛はなかったかもしれない。
また、翻訳という仕事においても、菅は岩波・新潮・筑摩という日本文化の中心に シェイクスピアの言葉を刻み込んだ。それらは今も読み継がれ、劇団の台本として使われ、 学生の教材として生き続けている。
まとめ──92年の生涯が語るもの
1915年に生まれ、2007年に逝去するまでの92年間、菅泰男はシェイクスピアとともに歩み続けた。 戦前・戦後・高度成長・国際化という激動の日本社会の変化の中で、 英米文学という分野が大学に根付き、一般に普及していく過程を、菅自身が体現していた。
勲三等旭日中綬章、大阪文化賞、京都市文化功労者、叙正四位── これら一連の叙勲・受賞は、個人への名誉であると同時に、 英米文学研究という分野そのものへの社会的承認でもあった。
菅泰男という名前を知らなくても、岩波文庫で『オセロウ』を読んだことがある人、 新潮文庫で『十二夜』に触れたことがある人は、知らず知らずのうちに彼の仕事の恩恵を受けている。 それが、真の意味での学問的遺産というものだろう。
私は、5年間、菅先生からシェイクスピアを中心に演劇を学んだ。菅先生は、2週間に2日、大阪から東京に来て、名もない私立大学の博士課程の創設に深く関わった。
生徒は、早稲田の修士を出た平さんと私。後、女性も一人加わるのだが、その授業は忘れられない。私は菅先生から弱点を指摘され、今までにない指導を受けることが出来た。
勲三等の授賞式の時は、受付を担当させて頂いた。能の家元等の有名人が多数おいでになり、緊張したものである。
菅先生は、スピーチで、Hamlet の独白を暗唱された。黒いマントを来て、その独白は菅先生が、敬愛するジョン・ギルグッドを越えていたと思う。その場にいることが出来たのは今でも忘れられない記憶となっている。
また、帰りに東京駅の構内でお酒を飲みながらお話出来たことは、私にとって一生の宝となっている。
今日は菅先生の命日。先生は眠るように逝ったと人づてに聞いた。
菅先生の冥福をお祈りしています。

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