紀貫之 “和歌ブーム”を巻き起こせ! 先人たちの底力  知恵泉

紀貫之 和歌ブーム
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紀貫之の人物像とその背景

紀貫之(公暁)は、平安時代中期の官人であり、歌人としても非常に知られています。

872年から945年の間に生き、その生涯は、内裏と地方という二つの、大きく異なる世界に跨って展開しました。いくつかの政変に巻き込まれ、しばしば地方に左遷されたものの、彼の文学的才能は皇族や貴族に認められ、再び京都の宮廷に呼び戻されることがありました。

彼はまた、歌能の高さと才気あふれる人柄で知られており、その作品は後世に大きな影響を与えるとともに、多くの人々を魅了しました。彼の人生と歌は紀貫之という人物像を理解するうえで欠かせない要素であり、「和敬静寂」の美意識を大切にした日本特有の感性の表現でもあります。

和歌の専門家として、貫之は「古今和歌集」を編纂し、これが日本最初の勅撰和歌集となりました。また、自身の地方赴任の経験を元にした「土佐日記」も著述しており、これらが彼の名声を定めることになりました。

以上のような経歴と特徴から、紀貫之を一概に表現するとすれば、彼は困難を乗り越えて成功を収めた才人であり、また和歌や日記などの文学を通じて日本の情緒や美意識を形成した人物と言えるでしょう。

平安時代の文化と和歌の地位

平安時代(794年-1185年)は、日本文化が大いに発展し独自性を増した時期でした。その中でも、和歌は格段にその地位を高めたのです。

平安時代初期は、唐(現在の中国)の文化が大きく影響を与え、詩や文学、絵画、建築など多くの分野でその影響が見られました。例えば、文章を書く際にも漢文が主流でした。

しかしながら、平安時代が進むにつれ、日本独自の文化が育つようになり、その一環として「和歌」が大いに花開きました。和歌は、詩(漢詩)とは異なり、日本語で五七五七七の31音で表現する形式が一般的で、自然や情感、季節などをテーマに詠むことが好まれました。また、恋愛や宮廷の風景なども積極的に詠まれました。

和歌は、宮廷の儀式や贈答品としても重要な役割を果たし、貴族たちの間での教養ともされました。特に天皇や公家、貴族たちが和歌を詠む風景はしばしば描かれ、その美しさや優雅さは大いに称賛されました。

特筆すべきは、905年の「古今和歌集」の完成です。これは、紀貫之を始めとする和歌の達人たちによって編纂され、1100首以上の和歌が収録されました。これは宮廷の公式な集として作られ、和歌が中心的な地位を得る一因となりました。さらに、それ以降も勅撰和歌集が続々と作られ、和歌の地位は確固たるものとなりました。

つまり、平安時代は和歌が盛んに詠まれた時期であり、和歌が宮廷風習や貴族の教養、そして日本人の感性を反映する文化として広く認知されるに至った時代だと言えます。

「古今和歌集」の作成とその影響

「古今和歌集」は、日本最初の勅撰和歌集で、全20巻に1120首の和歌が収録されています。これは紀貫之を中心とする歌人たちが編纂し、905年に完成しました。和歌集の名前「古今」は古代から現代に至るまでの歌を集めているという意味を込めております。

「古今和歌集」の特徴的な点は、その選歌の多様性です。天皇や貴族、僧侶、さらには庶民まで、身分や地位を問わず、優れた和歌を詠む者の歌が選ばれました。また、その内容も恋愛、季節、自然、旅、宴会など、人々の感情や生活をリアルに表現したものが多く、庶民の心情も描かれています。これにより、和歌は貴族だけでなく、庶民にも広く浸透していきました。

また、勅撰和歌集であることから、その地位は非常に高く、編纂の中心となった紀貫之自身の地位も一層高まりました。紀貫之による選歌や序文は、後の和歌理論の礎ともなり、彼の美意識や感性が色濃く反映されています。

さらに、「古今和歌集」により、「五七五七七」の形式・31音が和歌のスタンダードとされ、その後の和歌作りに影響を与えています。

「古今和歌集」は、和歌の地位を高めるだけでなく、和歌を通じた文化の広がりや感性の共有、そして日本の言葉と文化の保持と発展に寄与したと言えるでしょう。その結果、「古今和歌集」は日本文学史上、非常に重要な位置を占める作品となりました。

「春はあけぼの」の美意識の確立

「春はあけぼの」は、紀貫之が「古今和歌集」の前序に記した文章の冒頭の一節で、ここでは四季の美しさを詠んでいます。具体的には、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」(春は夜明け。だんだんと明るくなってくる山際が少し明るみ、紫色になり始めた雲が細く立ち込めている)と表現しています。

この文章は、日本の四季の移ろいや、自然の美しさを繊細に捉え、微細な感じ取り方をあらわしており、日本特有の美意識を具現化したものとされています。

具体的には、「あけぼの」の景色を表現することにより、自然と人間との共生、そしてその中での四季の移ろいや、その瞬間瞬間の美しさへの敬意を示しています。この感じ方は「もののあわれ」とも関連しており、美しいものや哀しいものに対する共感や共鳴、そしてそのはかなさを感じる感性が強調されています。

また、「春はあけぼの」のような感じ方は、仏教の思想にも通じるものがあります。人間の生の無常性と変化の激しさを捉え、それを受け入れる姿勢がみられます。

「春はあけぼの」は、その美しい表現と、奥深い美意識を通して、日本の文学と文化に多大な影響を及ぼしました。この感性は、古今和歌集だけでなく、和歌や俳句など、その後の日本の詩的表現にも引き継がれていきました。「春はあけぼの」の美意識は日本人の感性を形成し、また、日本の美の概念を世界に発信しました。

「土佐日記」の役割と意図

「土佐日記」は、平安時代の文人であり、和歌の名手でもある紀貫之(きぬのや)が記した旅行記で、935年から936年の間にかけて紀貫之が行った土佐から京都への帰京の旅を描いたものです。

当時の日本の日記というジャンルは、主に公的な出来事を記録するものであり、個人の所感や情動を表現する場とはなりませんでした。「土佐日記」は、そのような状況を打破し、自己の内面を深く表現した最初の作品と言われています。

「土佐日記」は、遣わされた土地から都へ戻る旅の道中での風景描写や、その感慨、さらには深い孤独感や生の儚さ、そして全体を通じたもののあわれといった感性が綴られています。それは、単に物語るだけでなく、読者に深い感情を誘う表現を用いることで、日本の紀行文学の範疇を拡げる一歩となりました。

また、「土佐日記」は平易な文語で書かれており、漢文に比べて理解しやすい形式で表現されています。これは、誰もが理解でき、感情に共感できる文学を志向した紀貫之ならではの表現で、後の日本文学の発展に重要な影響を与えました。

「土佐日記」は、日本の古典文学における自己表現の扉を開き、その効果は日本の文学、特に日記文学や紀行文学に大きな影響を与えました。また、「私小説」の原点とも評されることからも、その役割の大きさがうかがえます。


紀貫之 (ちくま学芸文庫)
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竹 慎一郎

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