人生の岐路。ある大学院の入試が教えてくれたもの。

大学を卒業して大学に残って研究したかった私は

大学院に、当時は博士前期課程と呼んだが、入るために就職活動はする気も全くなく

勉強に打ち込んだ。

あっさりと落ちた。

落ちた原因は英語も専門科目も出来なかったからだが、

筆記の後に受けた面接のことは何故か記憶していない。

それから、仕送りが止められたため、家庭教師や塾などのアルバイトをして、

生活費を稼ぎながら、残った時間は全て図書館で過ごした。

電車代がもったいなかったので自転車で行ける板橋区の図書館に通っていた。

自転車で15分位。どこへ行くにも自転車だった。

板橋区の図書館での自習室は広く、司法試験を目指しているであろう人など

結構集中して毎日英語の読解に取り組んだものだ。

あまりにお金がない時は、月に2,3度、交通量調査のアルバイトを

突発的に行った。朝の7時から夜の7時まで働いて1万円位日払いでもらえたので

緊急の際はそんなアルバイトも行った。

同級生は、一部上場の企業に大勢入っていたが、その時は目標に向かって

進んでいたこともあり悔しいとは思わなかった。

日々、生きるだけで精一杯だった。

一浪して大学に入ったが、大学院に入るのにも浪人せねばならなかったが、何せ

実力不足なので致し方ない。

迷いがなかったとは言えないが、大学院に入ることは好きなことで食べていける道だと思って

それなりに頑張った。

大学院の入試はそれなりに1年間勉強した甲斐があったのではないかと感じた。

科目は、英語と英米文学の専門教科の2つ。

専門はほぼ満点ではないかと思った。

試験の後で、その日のうちに面接が行われたと思う。

東大出身の教授は、君は文学の方はできるのかもしれないが、

英語力はまだまだだね!と言われて答案をわざと私に見えるようにした。

Pentagon も知らないのか君は? と言われて5角形は知ってはいたが、国防総省までは対策は及んでいなかった。

日本の省の名前は英語で言えるようにチェックしたがアメリカまでは気が回らなかった。

56点だった。

また落ちるのかと思った。

待合室に戻って帰ろうとしたら、私の1つ上の女性の先輩が話しかけてきた。

どうだった?

私は、英語が56点だったことを正直に話した。

その先輩は、私よりも出来ると思っていたので、私は57点だったのよと聞いて、驚きもしかしたらという気持ちがわいてきた。ひょっとしたら。。

文学史は?

私は、その時はアメリカ文学で受けていたが、出来なかったのは出典を当てる問題で、

Moby Dick, or the Whale と書く所を

Moby Dick, or the White Whale にしてそこは間違えたと話した。

先輩は、英語学だったと思うが何と答えたのかは覚えていない。

その時は、出来る先輩が57点ならば、総合点では上回ると思い後の会話はそのことを思い集中して相手の言葉は聞けなかったのだろう。

結果は言うまでもないが、先輩は合格、私は不合格だった。

1点でも落ちるといういい見本であろうが、総合点では私の方が上だったと思っても

どうしようもない。

面接官の私の指導教授は私を拾ってはくれなかった。

もう、これ以上の浪人はないと思っていたので、一ランク下の大学を受けていて、

そちらに行くしかなかった。

それが大きな間違いだった。

大学を変えるなら、院は一ランク上を目指さなければならないのに、

下の院に入ることは、考え方がそもそも間違えていた。

その大学では私は全くといっていいほど、認めてもらえなかった。

努力はかえって相手には疎ましい存在だったのだと思う。

修士論文は、William Faulkner の The Sound and the Fury を扱った。

修論の口頭試問には私の指導教授は欠席。別な教授がとんちんかんな質問を繰り返し、

私の2年間の研究は全く問題外となった瞬間だった。

それが私の人生だ。

人生の岐路を間違えて進んでいるバカないのししみたいに思えた。

その2年間のことは決して無駄ではないと思うのだが、人から認められない辛さはぬぐい切れない。

その後、どこへ行っても同じようなこと続いている。

それが私の人生なのか。

もう、この年になっても自分の人生は失敗の人生だと思うことが良くある。

しかし、生きてはいる。

それだけでも良しとしなければならないのだろうか。

もう、人生の半ばを過ぎ死へと向かっているのみなのか。

いや、また這い上がる。

地べたをはいずりまわってもこれでは終われない。

まだ、私は懲りていないようだ。

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竹 慎一郎

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