松村雄策(まつむら・ゆうさく)
ロッキングオン創刊メンバーにして日本ロック評論の巨星、70歳で逝く
1951年4月12日〜2022年3月12日|音楽評論家・文筆家・歌手|東京都出身
ロック評論の世界に革命をもたらした男
2022年3月12日、日本のロック音楽評論界に大きな足跡を残した松村雄策が、肺がんのため70歳でこの世を去った。 誕生日である4月12日まで、あとわずか1ヶ月を残しての旅立ちだった。
松村雄策という名前は、日本のロック・ジャーナリズムの歴史そのものといっても過言ではない。 1972年、まだ「ロック評論」という文化が日本に存在しなかった時代に、若者たちが集まって創刊した雑誌『ロッキング・オン』。 その創刊メンバーの一人が松村であり、以来50年にわたり誌面に原稿を書き続けた。
彼の文章は、一般的な音楽評論家やエッセイストとは次元が異なる独自の世界を持っていた。 「狂って冷めた」という言葉で表現されることもある独特のスタイルは、多くの読者を白昼夢のような世界へと誘い込んだ。 ビートルズについての深い洞察、そして時に主題と無関係に見える話題からゆるやかに本質へと近づいていく語り口は、 ほかの誰にも真似できない松村雄策だけのものだった。
生い立ちと音楽との出会い
東京・大田区の少年、ビートルズに運命を変えられる
1951年4月12日、東京都大田区に生まれた松村雄策は、東京都立桜町高等学校の夜間部を1970年に卒業している。 昼間は働きながら夜間学校に通うという生活の中で、彼の人生を根底から変えた体験が訪れる。 1966年、15歳のときに日本武道館で目撃したビートルズの来日公演だ。
その衝撃は生涯にわたって松村の精神を支配し続けた。 晩年まで自室にはビートルズのポスターが所狭しと貼られており、渋谷陽一は追悼文の中で 「まるで学生の部屋みたいだった。部屋だけみたら、そこに70歳の老人が住んでいるとは誰も想像できないだろう。 松村の精神世界そのままの部屋だった」と記している。 ビートルズとの出会いが、松村雄策という人間の核となったのだ。
アマチュアバンド「自滅回路」の結成
1970年、高校卒業と同時に松村はアマチュアバンド「自滅回路」を結成する。 ドアーズやジャックスのレパートリーをコピーするこのバンドは、 当時の若者文化の最先端を走るものだった。 この音楽活動の経験が、後の評論家・文筆家としての深みある音楽的視点を培ったことは間違いない。
『ロッキング・オン』創刊と日本ロック・ジャーナリズムの夜明け
1972年夏、ガレージから始まった革命
1972年夏、松村雄策は渋谷陽一、岩谷宏、橘川幸夫らとともにロック雑誌『ロッキング・オン』を創刊する。 当初はリヤカーに雑誌を積んで書店を回るという、極めて手作り感あふれる形での出発だった。 隔月刊でスタートしたこの小さな雑誌は、しかし「本格的なロック・ジャーナリズム」という明確な志を持って生まれた。
それまでの日本に、洋楽ロックをここまで真剣に、批評的に論じる媒体は存在していなかった。 音楽を「消費する」のではなく「考える・論じる」文化を日本に根付かせた功績は、 創刊メンバー全員が共有するものだが、特に松村と渋谷陽一は誌面の精神的な柱となり続けた。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1966年 | ビートルズ来日公演を武道館で体験(15歳) |
| 1970年 | 桜町高校夜間部卒業/アマチュアバンド「自滅回路」結成 |
| 1972年 | 渋谷陽一らとロック雑誌『ロッキング・オン』創刊 |
| 1975年 | ETER NOW名義で自主制作カセット『今がすべて』リリース |
| 1978年 | 1stアルバム『夢のひと』(渋谷陽一プロデュース)でメジャーデビュー |
| 1981年 | 初の著書『アビイ・ロードからの裏通り』刊行 |
| 1991〜92年 | 作家・小林信彦との「ビートルズ論争」 |
| 2010年 | 『ロッキング・オン』で「レコード棚いっぱいの名盤から」連載開始 |
| 2022年3月12日 | 肺がんのため死去。享年70歳 |
渋谷陽一との50年——同志にして永遠のライバル
同い年の創刊仲間が歩んだ半世紀
松村雄策と渋谷陽一は、同じ1951年生まれ。 渋谷は6月9日生まれと、わずか2ヶ月差の同世代だ。 この二人が出会い、共に雑誌を創り、50年間書き続けたという事実は、 日本のロック文化史における最も重要な人間関係のひとつといえる。
創刊当初から二人は「渋松対談」というコーナーを持ち、後に「渋松対談Z」へと引き継がれながら、 単行本化されるほどの人気を誇った。 この対談における二人の関係性は明確で、渋谷がボケ役、松村が冷静なツッコミ役を担った。 渋谷の大げさな物言いを、松村が涼しい顔で一刀両断する——このコンビネーションが読者を惹きつけ続けた。
プロデューサーとアーティスト——複雑な関係性
1978年、松村が歌手としてメジャーデビューした際、アルバム『夢のひと』のプロデュースを担当したのが渋谷陽一だった。 しかし松村はこのプロデュースに納得できず、2ndアルバム以降はすべてセルフプロデュースに切り替えている。 創刊仲間であり、文章の世界では対等なパートナーであっても、 音楽制作の方向性では相容れない部分があったという事実は、 二人の関係の深さと複雑さを同時に示している。
渋谷陽一は松村の死に際して、こう言葉を残している。 「創刊メンバーで50年書き続けたのは松村と僕だけだった」——この一文に、 二人が共に歩んだ半世紀の重みが凝縮されている。 そして「ロッキング・オンを50年続けられたのは松村がいたからだ。本当にありがとう」という言葉には、 盟友への純粋な感謝と、突然の別れへの深い悲しみが滲んでいた。

ビートルズ評論の第一人者として
ビートルズへの終わらない愛
松村雄策といえば、まずビートルズ評論の第一人者として語られることが多い。 1966年の武道館公演での体験以来、彼のビートルズへの傾倒は生涯にわたるものとなった。 単なるファンとしての愛着ではなく、批評家としての鋭い視点を持ちながらも、 少年のような純粋な熱量を失わない——それが松村のビートルズ評論の核心だった。
初の著書『アビイ・ロードからの裏通り』(1981年)はその代表作であり、 続く『ビートルズは眠らない』『ウィズ・ザ・ビートルズ』など、 ビートルズを主題とした著作が彼の文筆活動の骨格を成している。 これらの作品は、音楽専門誌の読者のみならず、文学的な文章を好む読者層にも深く届く内容として評価された。
小林信彦との「ビートルズ論争」
1991年から1992年にかけて、松村は作家・小林信彦との間で世間から「ビートルズ論争」と呼ばれる対立を経験する。 小林が松村を評論家・作家として認めない姿勢を示し続けたことに対し、 松村が『ロッキング・オン』誌上で批判を展開するという構図だった。 この論争は、松村が自らの立場や仕事に対して真摯に向き合っていたことを示すと同時に、 ロック評論という分野の社会的位置づけをめぐる当時の摩擦も反映していた。
歌手・松村雄策——知られざるもうひとつの顔
評論家だけでは収まらない多面的な才能
松村雄策は評論家・文筆家としての顔だけでなく、歌手・ミュージシャンとしての一面も持っていた。 1975年には、インディーズという概念すら存在しなかった時代に、 「ETER NOW(イターナウ)」名義で自主制作カセットテープ『今がすべて』を通販限定でリリースしている。 この先駆的な行動は、後のインディーズ文化の先取りともいえる。
1978年には「マッキー・ショック!」というキャッチフレーズとともに、 渋谷陽一プロデュースの1stアルバム『夢のひと』で日本コロムビアからメジャーデビュー。 続いて『Private Eye』(1979年)、『Unfinished Remembers』(1984年)と3枚のアルバムを残した。 これらの作品は2007年に紙ジャケット仕様でCD化されており、今日でも一定の評価を受けている。
| 作品タイトル | 種別 | 発表年 | 備考 |
|---|---|---|---|
| ETER NOW『今がすべて』 | 自主制作カセット | 1975年 | 通販限定リリース |
| 『夢のひと』 | 1stアルバム | 1978年 | 渋谷陽一プロデュース |
| 『Private Eye』 | 2ndアルバム | 1979年 | セルフプロデュース |
| 『Unfinished Remembers』 | 3rdアルバム | 1984年 | セルフプロデュース |
著作活動——ロック評論を文学へと昇華させた文章
「レコード棚いっぱいの名盤から」——晩年の名物連載
2010年12月から2020年12月まで、『ロッキング・オン』誌上で続いた「レコード棚いっぱいの名盤から」という連載は、 晩年の松村の代表的仕事のひとつだ。 約10年間にわたり、自身のレコード棚に並ぶ名盤を一枚ずつ取り上げながら、 音楽と人生と記憶が交差するエッセイを書き続けた。 この連載は単なるレビューではなく、松村雄策という人間の半生を映し出す鏡でもあった。
主な著作一覧
| 書名 | 出版年 | 出版社 |
|---|---|---|
| 『アビイ・ロードからの裏通り』 | 1981年 | ロッキング・オン |
| 『岩石生活入門』 | 1983年 | ロッキング・オン |
| 『苺畑の午前五時』(小説) | 1987年 | 筑摩書房 |
| 『リザード・キングの墓』 | 1989年 | ロッキング・オン |
| 『ビートルズは眠らない』 | 2003年 | ロッキング・オン |
| 『ウィズ・ザ・ビートルズ』 | 2012年 | 小学館 |
| 『僕を作った66枚のレコード』 | 2017年 | 小学館 |
| 『僕の樹には誰もいない』 | 2022年10月 | (遺作) |
| 『ハウリングの音が聴こえる』 | 2024年3月 | 河出書房新社(没後刊行) |
松村雄策の文章が持つ独自の世界
「狂って冷めた」原稿の魔力
ロッキング・オンの総編集長・山崎洋一郎は、松村の文章を「狂って冷めた原稿」と表現し、 白昼夢のような世界へと誘い込む力があったと語っている。 実際、松村の文章を通じてビートルズやドアーズを「体験」した読者は多く、 山崎自身も「ビートルズをろくに聴いたこともないまま、松村さんの原稿でビートルズを掴んでいた」と述べている。
松村の文章の最大の特徴は、論理の積み重ね方にある。 一見すると本題と無関係な話から始まり、ゆるやかに引き込まれながら読み進めると、 後半で対象の本質が端的に表現される——その構造が読者を最後まで離さない。 「音楽評論家ともエッセイストとも違う次元」という評は、この独自の文体を指している。
加藤典洋・坪内祐三らに高く評価された文筆家
松村の文章は音楽ファンの間だけでなく、文芸批評の世界でも高く評価された。 文芸評論家の加藤典洋や、批評家の坪内祐三がその才能を称えたことは、 松村の仕事が単なるロック評論の枠を超えた文学的価値を持っていたことを示している。 また、ミュージシャンの大槻ケンヂも松村の著作を愛読し、深い理解者のひとりとして知られる。
晩年と死——青春のまま逝った70歳
病と闘いながら書き続けた最晩年
晩年、松村は肺がんと闘いながらも執筆を続けた。 2021年11月号の『rockin’on』には自身の近況について詳しく記したレビューを寄稿しており、 亡くなる直前まで現役の評論家として活動し続けた。 翌2022年3月12日、静かにその生涯を閉じた。
渋谷陽一は「松村は青春のまま人生を全うした」という言葉を残している。 ビートルズのポスターが貼られた部屋で、最後まで音楽を愛し続けた松村雄策。 その姿は、ロックとは何か、音楽を愛するとはどういうことかを、 静かに、しかし力強く示し続けていたように思える。
没後も続く影響——遺された著作と精神
松村の死後も、その影響は続いている。 2022年10月には晩年の集大成ともいうべきエッセイ集『僕の樹には誰もいない』が刊行され、 2024年3月には文芸誌「小説すばる」での連載をまとめた『ハウリングの音が聴こえる』が河出書房新社から刊行された。 これらの没後刊行作品は、松村雄策という書き手が今もなお読まれ続けていることを示している。
——渋谷陽一(ロッキング・オン代表取締役)
まとめ——松村雄策が日本の音楽文化に残したもの
松村雄策は、ロック評論という文化を日本に根付かせた先駆者のひとりであり、 その独自の文章スタイルで多くの読者の音楽体験を豊かにした稀有な書き手だった。
渋谷陽一という生涯の盟友と共に歩んだ50年の『ロッキング・オン』の歴史、 ビートルズへの終わらない愛、そして歌手・小説家としての多面的な才能—— これらすべてが「松村雄策」というひとつの人格の中で結びついていた。
2022年3月12日に70歳で逝った松村雄策。 しかしその文章は今も本棚に並び、新しい読者に発見され続けている。 ロックが持つ「永遠に老いない精神」を、彼は生涯をかけて体現したのだ。
松村雄策(1951年4月12日〜2022年3月12日)
享年70歳 肺がんのため永眠
ありがとう、松さん。

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