運命の歯車

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「石原慎太は誰のクラスだったのか、誰か覚えていないか。」

教頭が進路室に入りながら、誰に話しかけているわけではないのだが、皆そこにいる者は注意を奪われた。

ああ、自分のクラスだ、と直ぐに分かったが、代わりに応えてくれたのは僚友まっちゃんだった。たけちゃんのクラスだったよね、私は重い口を開いた。
「そうです、私のクラスでした。」
こんな名前忘れることはできない名だ。というよりは、つい3月に卒業して福岡の私大に飛び立って行ったばかりだ。それに彼とはいろんなことがありすぎた。

「石原は死んだよ。列車に引かれたらしい、音楽を聞きながら、自転車を押していたそうだ。踏切のない線路を渡る時に、列車が来るのがわからなかったらしい。後ろには川岸がいたらしい。目の前で友達を亡くして、ショックを受けているそうだ。学校を代表してたけちゃんと、誰か通夜と葬式に行ってくれないか」

教頭の言葉に驚く暇もなく、そんな死に方が果たしてあるだろうかとぼんやり考えていた。音楽を聞きながらであっても、あの列車の剛音に気づかぬはずはないではないか。

その時の学年主任の大ケ代先生が手を挙げてくれた。頼もしいの一言である。2人で行くことになった。教頭は踵を返し、元の進路室の雰囲気に戻った。生徒の出は入りが多い時は、活気があるが、生徒がいない時は、皆黙々とパソコンに向かっている。必ずしも仕事をしているとは限らないのであるが。皆、結構ネットで遊んでいる。いや、検索しているの間違いである。

石原と言えば、センター試験の自己採点で、数学ⅠAを92点と書き、しかも、彼の志望校はA判定で私は最後はきちんと点数を取ってくれたと思っていた。しかも、学費の安い国公立の夜間であったので、彼の家庭環境を考えても彼のA判定にはいい驚きだった。

三者面談の日、時間になっても彼の姿も母親の姿もなく、こんな大事な時に遅れやがって、私は電話をかけようとした、まさにその時に彼は現れた。悪ぶれた表情も感じず、母親の姿も見えずどうしたのか、と聞いた。母親は仕事でこれないと言う。こんな大事な日に保護者なしでは面談の意味もない。そもそも、保護者の考えを聞くことも大事な要素の一つであるのだから。
「それにしても頑張ったなあ。数学、凄いじゃないか」気を取り戻して本題に入った矢先、彼は当たり前のように言った。「先生、あれ、間違いなんすよ。本当は30点位なんすよ。」
私はその時、30代半ば、胸ぐら掴むのを堪えて、じゃ、どこに行くんだ、と冷静を装い聞いてみた。
「福岡の私大に行きます。」飄々と悪びれず言うので、怒る気もなくなってしまう。彼は、そんな独特な雰囲気を持った少年だった。私は、母子家庭で経済的にも苦しいのに簡単に言うなよ、と言おうとしたが、流石にそんな馬鹿なことを言う生徒に対してであっても、人間としての礼儀を尽くし、保護者と相談してくるようにと、冷静さを失わずにそう言うことができた。慣れていたのだ。初めて彼と会った時から。分かっていた。彼は、いい加減な性格であることを。結局、母親はどこからそんなお金があるのか、と言ったら失礼ではあるが、福岡のそこそこの私大に行くことになった。彼とはこれで終わりだろうと思っていたが、このような形でまた、彼と会わなければならない現実に驚愕していた。

運命の歯車は止まっていなかったのだ。卒業後も周り続けていたのだ。
3月1日に卒業式を迎え、5月の初めに同窓会が行われるなど、だれが思うだろうか。通夜にも葬式にも沢山のクラスの仲間たちが来ていた。私は、川岸を探した。目の間で人が列車で引かれるのを目のあたりにしたのだから、相当ショックを受けているはずだ。

しかし、川岸は表には何も表さなかった。そこには、態度も表情も変わることはなかった。そんなこと聞かなくてもわかっている、といった、態度すら思えてきた。何でも思ったことは言えるような生徒だったのに、ただ、「大丈夫です。」と言い、それ以上私と口を聞くことはなかった。彼には恐らく消しがたい過去になるのだろうが、私は、もう川岸のことより、石原の死の方に関心が移っていた。自殺では、誰もがそう感じるだろう。しかし、音楽に気を取られ、列車に引かれて死ぬような人間なのだ、私には、それは自分の中で簡単に処理することができることだった。

大ケ代先生が私に行けと、目で合図してくれ、学校の代表として線香をあげた。
大学の関係者が4,5名来てくださっていた。事情を伺ったが、彼らにもまさかこんなことが起こるなどとは思いもよらなかっただろうか。責任は、誰にあるのだろうか。大学にはない。私だろうか。差し当たっての責任は、彼一人にあると言っても過言ではないだろう。音楽を聞きながら、自転車を押して、列車が来るのにも気づかず、死んでしまったのだから。
彼の母親のことは、覚えていない。挨拶を交わしただろうが、何も覚えていない。

母の子供である。離婚して、結婚したのが石原氏。それで石原慎太という名前になってしまった。元の姓は分からないが、彼は何かの重荷を背負って生きていかねばならない運命だったのかも知れない。
時は、1年前に遡る。書かなければならない。

3年生の担任も板についてきた。この学校に来て、初めは、2年生の副担からスタートしたが、次の年から、3年生の担任連続3回目であった。飛び込みでやりにくい半面、高校最後の進路指導に関わることは、1,2年生の担任からから見れば、美味しい所を独り占めしてしまうような感じを受けるだろう。

しかし、他の学年よりも雑務は増え、面談も増え、教科指導も明らかに大変になる。3回目の担任は、慣れたものだった。希望は1年生だったが、3年生の理系の普通クラスを受け持つことになった。1学年全部で7クラス。地元の伝統校であり、進学実績も高く、それだけやりがいを感じていた頃だった。4月1日に公務文章や受け持ちのクラスなどが発表になり、これからどんなクラスになるのだろうと期待も大きかった。公務分掌は進路で、ここも3年目、大職員室よりもはるかに居心地がよかった。10名程度の部屋で、3年の担任が7名入り、学年主任、進路部長、そしてPTA雇用の女性の、歳はそう若くはないが、進路関係のお金は彼女が握っていたので、PTA雇用とはいえ、丁寧に接しなければならない人だった。しかし、気さくな気の利く何でも分からない所は聞ける雰囲気を持ち合わせていた。

学年主任は、大ケ代先生で、飲むと喧嘩をふっかけてくる日本史の先生で、私立文系コースの担任をも兼ねていた。普段は、威張らず、各担任、各クラスのことに目を配れる実力のある先生だった。とはいえ、私よりも2つか3つか年上で、同世代なのであるが。

進路部長は、小原先生で、名前と違い、強面の大ベテランの数学の先生だった。面倒みもよく、飲みにもよく連れて行ってくれ、教育論をよく語り、私は相当考え方に影響を受けたものである。「学習は生徒が自主的にしなければ絶対につかない。」と言いながら、休みの日に生徒を呼び、指導していたのを覚えている。生徒は単に顔が怖いので、嫌とも言えず従っていた訳ではないだろうが、小原先生の数学の成績は学年で際立ってよかった。また、「進路室の人間はタバコを吸わなければならない、ここは男の世界だ。」とよく聞かされた。私は喘息があり、長時間の授業でタバコを吸っていたら、声がかすれてくるので、タバコは遠慮させて貰っていた。

数年後、別な高校に移り、小原先生とお会いしたが、タバコは止めた、と聞いた。多分、管理職を目指す上で健康に支障がでるのを恐れていたのだろう。その小原先生は校長となり、校長会の会長となりこの3月に、定年退職を迎えられたと知った。その後の校長が大ケ代先生なので、運命の歯車はまた、1回転したに違いない。ちなみに小原先生は私の父の話をよくしてくれた。小原先生は結局、私の父と同じ道を辿ることになった。これも単なる偶然と言えるだろうか。
4月8日の始業式を目前と控え、3日の私の誕生日を終えると、そろそろ動かなければならない。一人一人の成績、顔、住所、家族関係を頭に叩き込まなければならない。クラスの通信をB41枚作るのが、今までの通例であった。そこには、名票、時間割、掃除の担当の場所、クラスの方針等が書かれている。毎年、様式は同じであるが、1、2時間ではできない。
そうこうしている内に、クラスの名票の中に気になる名前を見つけた。蕨君だ。蕨という名前自体珍しいので、私の記憶のそこからよみ上がってきたのだった。嫌な予感が、背筋を走った。住所を確かめると、ほぼ間違いないことが分かり、なんとかしなければと仕事はそこでストップしてしまった。後4日しかない。しかも明日から、休み。月曜、火曜日から生徒が登校してくる。実質後1日しかない。
休み中にその家に行ってみた。住所を確かめるためだ。住所よ、違ってくれ、と私の心の叫びは虚しくついえ、予感は的中した。
日曜日に、学年主任の大ケ代先生に事情を電話で打ち明けた。休みだったが、緊急事態発生。大ケ代先生は、月曜日になんとかしましょう、小原先生には私から電話しておきますので、安心してくださいと言われ、私は月曜日を待つしかなかった。始業式の準備が手につかなかったが、月曜日の処理で間に合うのかと不安でたまらなかったのを今でもよく覚えている。

人より10年遅れて教員になった。13年間の東京暮らしを経て、実家に帰る気になった。父が定年を迎え、高校を退職すると言う。家もお前のために、平屋から、2階建てに立て直したと言ってきた。東京生活も13年。そろそろ疲れてきたなあと思っていた矢先のことであった。当時、結婚まで意識して付き合っていた彼女から、あっさりと、そんな田舎にはいけないと振られ、田舎かでゆっくり暮らそうかな、などと考えたのが、そもそもの間違いだった。教員は特に田舎の教員は激務である。大都市では、予備校があるが、地方では、予備校の代わりの授業まで要求されている。

東京の私立高校の適性検査も受けていて判定Bで内内定までいった高校もあったが、田舎の県立高校を受けることにした。自信はあった。当時大手の予備校で、そこそこの給料を貰っており、田舎の高校の試験を受けたら合格する可能性は高いと感じていた。なにせ父は校長で退職で、しかも校長会の会長まで務め、文科省の大臣から直々に賞状をももらっていた。1次は筆記。筆記に受かれば、2次はコネが聞くと言われていたからだ。

また、予備校では、チョ-クを親指で上に高く弾き、落ちて来た所を、キャッチし板書して、受けを狙ったもので、英語力にはそこそこの自信があった。
10倍近くの倍率を乗り越え予想通りの合格だった。地獄の1丁目の始まりである。東京の私立よりも早く結果が出たので、順番的にも田舎教師を選ぶことにした。30過ぎてからの学校での勤務だったが、似たようなタイプの方もおり、それは県自体が推奨していることでもあった。教員の不祥事の原因が、社会経験不足だと非難されていたため、大学での優秀な学生と、社会経験のある者を県も積極的に採用していた。

とにもかくにも、田舎教師はスタートする訳ではあるが、どがつくほど田舎の、底辺の高校に赴任することになった。教育の仕事にはキリがない。ここまでやれば完璧だということはない。無限に仕事はある。その中でも、これまでの予備校での受験指導とは違った、生徒とのつながりにやりがいをも感じるようになっていった。

田舎なのでアパートがない。学校の近くの、古い大きな一軒家を借りて第2の高校生活が始まった。東京では考えられないような広さで、庭もある。庭がひまわりいっぱいになればいいかも、などと思いながら、休みの日には、土を耕し、ひまわりを植える準備を始めた。

隣には大きな一軒家があり、家族4人で暮らしていた。父母、2人の子供たち。私もこんなふうに年を取っていくのかと、東京での生活の記憶は次第に遠くなり、田舎に落ち着くのも悪くはないか、などと急に保守的になったような物の考え方をするようになっていた。週に1本ネクタイを買い、週末は隣町までタクシーで飲みに行くような、東京では味合うことのできなかった生活に慣れていった。

ひまわり作りに精を出していると、隣には小太りの温厚なおじさんが住んでおり、よくたわいもないことで話しかけた。これが田舎なのだ。別に害を与えられることは感じなかったので、土を耕すのを止めて、世間話もできるようになった。私にとってはこの近所付き合いというものが、苦手で仕方なかったが、30も過ぎ、地元の高校の先生というレッテルにも、地元からの一種の尊敬も感じ、悪い気はしなかった。

秋も深まり、ひょろひょろのひまわりも雑草へと倒れてしまった頃、隣のおじさんが近くの居酒屋に飲みに行かないかと誘ってくれ、私も、ひとりで時間を持て余した、休日を送っており、近くだったらいいかなと思いながら歩いて10分位の居酒屋に2人で世間話をしながら向かった。その地方は、内陸部にあたり、新鮮な魚がなかなか手に入らない。代わりに鳥の刺身がその店の、いや、その地区の名物だった。初めは、なかなか臭みもあり、苦手であったが、鳥のレバーの刺身も食べれるようになっていた。焼酎の力のなす技である。勘定はどちらが払ったか覚えていないが、一人2000円くらいでたらふく食べ、呑んだ。そろそろ話す世間話も尽き、また歩いて2人で千鳥足で帰っていた。

家の近くに差し掛かった人目につかない薮が生い茂った所で、信じられないことが起こった。おじさんが、ズボンもパンツも脱いで、私に抱きついてきたのだ。初めは冗談だと思っていたが、思い切りキスをされ、なにをシコシコしごいていた。

何が起こっているのか、把握し、私は「そんな趣味はありません」といい、家まで全速力で走って逃げて行った。多分その時そのおじさんは「いった」のだろうと思う。狙われていたのだ。ホモのおじさんに。
しかし、そのおじさんには、奥さんも子供いる。いわゆる「ノンケと」いうやつか。東京時代の新宿2丁目に連れていかれたことを思い出した。「ノンケ」がなんの略かは忘れてしまったが、両刀使いといった意味なのはなんとなく覚えている。

1週間後にそのおじさんは、うちの玄関の戸を叩いた。いいウイスキーが手に入ったと遠くから聞こえて来た。私は、親しい友人に相談し、また、必ずやってくるから、玄関を絶対に開けるなという言葉に従い、「そんな気はありません。」と聞こえるようにおじさんに向かって言った。おじさんも私が出てくる気配もないので、去っていった。しばらくの間、本当に去ったのか気になって、座りこんでいたが、気配を感じることもなかったので、玄関を明け、左右を見回し、誰もいないことを確かめ、鍵を締め直した。

1週間後、隣街との中間地点にアパートを借りてお隣に挨拶もなく、ひっそりと引越を挙行し、そのおじさんとのことはそれで一旦終わりとなった。
そして、3月転勤の内示があり、隣街の伝統校の進学校への転勤が決まり、その事件はもう思い出すこともない、呑んだら変なおじさんに絡まれた位の何でもないことにすり替えられてしまった。

2校目の進学校は、忙しくなったが、3年生の担任も経験し、3度目の3年生の担任が巡ってきた。名票に見つけた変わった苗字。私は覚えていた。あのおじさんの苗字が蘇って来た。まさか、としか言いようがない。あのおじさんの息子が私のクラスにいるではないか。住所を調べたが間違いないようである。4年前住んでいた住所の、隣である。自分の住所も思い出した。あの時はまだ、中学生の男の子が隣にいるとしか思えなかったが、近くの高校へ行くよりも、進学校への道を選んだということは、全く知らなかった。
運命とは不思議な気がする。あの事件はまだ終わっていなかった。このままであると、家庭訪問や三者面談で顔を合わせることになってしまうだろう。何が何でも阻止しなければならない。始業式まで、もう時間がない。火曜日から始業式だ。もう新学期のクラス編成も全ての準備が終わっていることは分かっていた。大ケ代先生に後はなんとかしてもらうしかない。私が電話した時、大カ代先生は「お母さんとのそういう関係は聴いたことはあるけど、流石にお父さんとの関係は聞いたことはない。」と笑いながら応えてくれたが、私には余裕など何もなかった。担任が変わるか、生徒を入れ替えるのか。しかしもう新学期の準備は出来ている。

月曜日の朝がやっと来た。

直ぐに、学年主任の大ケ代先生と、進路部長の小原先生と3人で別室で話し合った。私がいない間にもう答えは出ていたのだろう。
小原先生が笑いながら言った。私は真っ青なのに。「生徒を入れ替えましょう。選択科目と成績を見ながら1人の生徒が浮上した。石原である。「この2人をチェンジしましょう。」
「名票はできているのではないですか。」
「まだ仮名票だから間に合う。」
小原先生の言葉に、ほっとして、教務には「親戚がいたとかなんとか言って、変えてもらうから安心して下さい。」
石原が私のクラスに入ってきた。2人は対象的だった。石原はひょうきんで、おちゃらけた性格。一方例のおじさんの子供は、真面目で礼儀もきちんとしている。最後の最後まで、石原の進路のことでは悩まされたが、おじさんの子供は、関東の国立大学に入学した。石原は、進路も勝手に福岡の私大に変えた。彼の人生は、彼の見えない所で明らかに巡っていた。離婚して、再婚して姓が石原に変わり、有名俳優と似た名前になり、しかも全く関係のないホモのおじさんのせいで、クラスまで変わってしまった。彼は、古い団地に住んでいた。母親とは何回面談、家庭訪問したかわからないほどだが、不思議と思い出させない。

もう20年前のことである。一人の生徒の死に何が起こったのか。
彼が住んでいた団地が頭に焼き付いて離れない。

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竹 慎一郎

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