この世の果て、ケセラセラ。なるようになる。

あの時、僕たちは新宿にいた。

2人とも酔ってはいたが、意識も足元もしっかりしていた。

どこに行こうにも行くところはないが、

新大久保にタクシーを走らせた。

タクシーの中で2人は何も話すことはなかった。

ラジオから、「ケセラセラ」が流れてきたからだ。

「なるようになる」

繰り返し流れるその曲は僕たちの終わりを象徴するものだった。

「なるようになる」

そう、いかなる状況に置かれても、結局なるようになる。

それは慰めの言葉なのか、人生の諦めの曲なのか分からない。

あれから、20年以上が経過した。

時間の流れはあっという間に流れたとは決して言えない。

しかし、あの時の思いはそのまま続いている。

いつでも、あの時に戻れそうな錯覚さえ覚える。

戻れることなどできるはずはないが、焼き付いた

記憶は消えることはない。

僕がした過ちは何も咎められることはなかった。

だから、そう、あのことは起こらなかったと言っても誰にも分からない。

僕たち2人の記憶には残っているとしても。

あのタクシーの中で、かかっていた「ケセラセラ」は僕たちに

特別な勇気を与えてくれた。

少なくとも私には。

いっそのこと地獄に堕ちてしまえばよかったのに。

日常に戻ることは許されないのに、

いつもの日常がまたやってきた。

しかし、その日常には、あの時の記憶が

追加されることとなり、永遠に消え去ることは出来なくなった。

「ケセラセラ」がタクシーの中でかかったのは偶然とは思えない。

僕たち2人への地獄からのプレゼントであったと思う。

ガラスを粉々に砕いていた彼女がこう言った。

「結構、勇気あるじゃん!」

この言葉には何も答えることは出来なかった。

私は勇気があった訳ではなかったのだから。

勇気という言葉はその時の私には全くそぐわない言葉だった。

そう、2人の思いは違っていたのだ。

彼女は、更に昔の思い出にとらわれていたのだろう。

それを、私という身体を借りて再現したかっただけだったのだろう。

私の存在は、彼女にとってはそれだけのものに過ぎなかったのだろう。

残念なことだが、2人は同じ気持ちではなかった。

残念なことだが、2人の中では、ずれがあった。

そのずれを感じている自分がいた。

多分、このずれはもっと大きくなり、私は、

そのずれを自ら修復することなく、去ることを

望むのだろうと次第に思うようになった。

そして、当然のことながらその日はやって来た。

予想通りだった。

思っていた通りだった。

私は悲しみにくれたが、予想通りのことであったので、

その通りになっただけで、私の望みはかなえられたと思う気持ちさえあった。

遊びのゲームは終わった。

ゲームで良かったのかもしれない。

私はもうこれ以上、彼女のゲームに付き合いきれなかったから。

ゲームは終了した。なるようになっただけだった。

この世の果て、ここでしか今見られないようです。2週間のお試しもあります。

私たちの、この世の果てのゲームは20年以上前に終わりました。

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竹 慎一郎

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