「国境の南、太陽の西」 村上春樹 レビュー 太陽の西に潜む暗闇の中で

国境の南、太陽の西 村上春樹

本書「国境の南、太陽の西」は、1992年10月に出版。今は2022年も終わりに向かおうとしているので、出版から30年の月日が流れたことになる。

1992年と言えば、日本ではバブルがはじけた後であるが、バブル期を背景にしており、小説の雰囲気は一見すると、洗練された恋愛物語の雰囲気を醸し出しているかのようにみえるが、そう単純な小説ではない。

主人公の始が小学校の高学年12歳位から37歳にかけてストーリーは展開する。ちょうど私が30年前に出版された本を読み12歳の頃の私が成長するかのように、私は過去を振り返りながらこの本を読んだことになる。

海辺のカフカ」を読み、初期の長編に非常に興味を持ち、「カフカ」に劣らず読み応えのある作品であった。

人は何かしら分からないものによって、お互いを引きつけられることが多々あるのをこの本の初めから私は意識していた。

それはその人物が発するある種の「匂い」である。しかし、その匂いには匂いはない。雰囲気と言ってもいいかもしれないが、適切な言葉が出てこないので歯がゆい感じがするのであるが、その人にしか出せないものである。

それは偶然なのか、必然なのか分からないが、本人たちが全く気づかない所で強い力で引き合う力とも言えると思う。だから、始が出会う女性たちは皆、すれ違った時に後ろを振り返りたくなる均衡のとれた美女ではないのだ。

島本さんは足を引きずっている。イズミ、イズミの従姉妹、そして妻の有紀子も皆、始に出会う運命であったと思う。何故か分からない強烈に引き合う力によって結び付けられるが、その力は一定の力を持っていないため、結び付けられたと思うと、時間が経てばその力は急速に弱まり破局を迎えることになるかもしれない不思議な力だと思う。

それは私自身そのような経験をしてきたから実体験からみても明らかではないかと思う。私が強く引かれる人は、何故だか分からないが、私の近くにいることが多い。出会いは偶然と言っても間違いではないと思うが、私が心引かれる女性(男性も)はいつも私のそばにいて自然と話しがあい仲の良い関係へと発展する。

しかし、それは長続きはしない。強く結び合えば結び合うほど、その別れは壮絶な死をも感じさせるものであった。ちょうど、始と島本さんの関係のように。それゆえ、あの別荘での始と島本さんとの関係は、それまで押さえつけられてきたエネルギーが一挙に放出してしまったのであるが、その先には、死への階段が目前に迫っていたと思う。高速道路で、島本さんは、始が運転するハンドルを切り返したらどうなるだろうと問いかけるシーンがあるが、島本さんはまだ別荘に着く前、あの始のバーで始めから別荘にいかないかと誘われた時から、もう後戻りはできない死の存在を感じていたのであろうと思う。

島本さんは、翌朝姿を消した。

二人は死なずに済んだという訳である。死の存在が見え隠れすると人間には不思議と防衛反応が出てくるのではないだろうか。

始は12歳から37歳にかけて25年間、島本さんの存在を消すことは出来ずに後を引きずっていたのであるが、あの別荘での夜を迎えて島本さんと結び合うことはできた。しかし、それは結びついた瞬間に壊れてしまった。細い1本の糸を針穴に通すことが出来ずに何度も何度も試みた末、やっとの思いで、糸が通った瞬間に、手が滑り糸がまた針穴から外れてしまったかのように。島本さんは、12歳の頃、始と出会った頃からもうすでにその結末を知っていたと思う。島本さんも始に引かれていく力に抗することは出来なかったが、翌朝彼女は自分の意志で二人の破滅を避けるために姿を消す道を選ばざるを得なかった。

短いながら人生の内の数十年を費やさなければ解決できない問題もある。いや、解決することの出来ない問題の方が多いのかもしれない。始は1からやり直すつもりで新しい人間へと生まれ変わることだろう。

島本さんもイズミも生きていかねばならないだろう。

死は平等に人間に降りかかる一大イベントだが、その人間の終焉は静かで穏やかなものであって欲しいと願う。

始は雨降る夜に、島本さんの影を追うことはもうないだろう。

国境の南にはまだ遥かなる世界があるが、太陽の西には沈黙の暗闇しかないとしても。

国境の南、太陽の西 村上春樹

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竹 慎一郎

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