生きるための死への階段

「この世の果て」

野島伸司脚本のテレビ番組史上最高のラブストーリーのテレビ番組。

「SEKAINO OWARI」

こちらは人気のあるバンドの名前、知らない人はいないだろう。セカオワと皆は言う。

両方とも英語にすると、The End of the Worldとなる。

21世紀を迎えて世紀末のいわゆる世界が滅びるというのは、幻想に終わったかに見えるのだが、

セカオワの人気をみるまでもなく、私たちは絶えず終末思想に囚われていると言えるのではないだろうか?

私たちは生まれて必ず死を迎える。

これはいかなる人間にも与えられた平等な権利である。

死を確実に迎える以上、つまりはこの世からいなくなるということであろう。

死は絶えず私たちのそばにいる。

片時も離れはしない。

しかし、それを意識しては生活が出来なくなるために、

私たちはその存在を故意に忘れたふりをして生活しているに過ぎない。

死にたくない生への固執が強い人間は死の恐怖が強くなるのではないだろうか。

私は思うに、生と死が良い均衡を保つのが生きていく上で生き易いのではないかと思う。

どちらかにあまりにもかたより過ぎると生きにくくなるようだ。

たまには死のことを思わざるを得ないのは人間である以上当然なことであろう。

強烈な読書体験が今まで2度あった。

1度目は10代の終わり。

生きるのに困難を覚えた。

死への誘惑は読書に向かいそれは加速するかに一見みえるのだが、

その読書のために死は一日、一日と延期され、本が無くなる訳はないので、

その読書で死を延期された者は寿命が尽きるまで生きていかなければならない運命となる。

シオランは、「一冊の本は延期された自殺だ。」と言った。

まさにその通りだと思う。

読書が死を延期するのと同じように、

人によっては、読書ではなく、それが音楽であったり絵画であったりすることであろう。

また、人との出会いや趣味なども含まれることであろう。

私の場合は、10代の時の読書体験と音楽が死への誘惑へと導かれたのだが、

そのおかげでその時の難局を乗り越えたのは事実である。

何冊も何冊も読む。

古今東西本は尽きることはない。

何回も何回も曲を聴く。

音楽も尽きることはないが、私の場合は音楽は尽きてしまった。

聴きたい音楽はなくなってしまった。

その難局を越えると、新たなる局面へと進み、読書や音楽の傾向も変わっていく。

それでも、死からは逃れられないことを一度でも意識すると、その思いは一生離れることはない。

それでも自ら死ぬことはない。

本も音楽もその他の興味も絶えることはないからだ。

自分が生きるためにそれを文にする。

それで死はまた遠ざかる。

もし、私のこの文に触れた方はどう思われるかは分からないが、

私の文を読み、それで死ぬのが一日延期されるのであればこんなに嬉しいことはない。

お互いに死への階段を一段一段登って行っているのは確かなことではあるが。

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竹 慎一郎

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