あなたは自分のことが好きですか?

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自分の努力が認められ、その努力に見合った高い収入と地位が与えられた人の一生は恵まれていると言えるだろう。

逆に、努力したのにかかわらず、その努力は認められることもなく、希望した職にも就けず、経済的にも困窮し、人を信じることもできず、絶望の中で一生を終える人の一生は幸福とは言えないかもしれない。

多くの人は、前者と後者の中間あたりで、妥協しささやかな小さな幸せを感じ人生の幕を閉じるのであろうと思う。

「あなたは自分のことが好きですか。」

と問われたらあなたは何とお答えになりますか。

自分のことが好きだ、と答えられる方は、その人の人生を肯定的に生きており、不満はあるにはあるだろうが、全体的に見てみれば幸せな人生を送っていると言えると思うが、一方、自分のことが好きではない、嫌いだと答える人は、その人生は否定的なものであり、自分の思った通りのビジョン通りに生きてはいないということになると思う。

つまり、自分が好きなのか否かという質問には、自分の意志で決められることではなく、その人の生き様が成功して思い通りになっているのかに大きく依存していると思われる。

極端な例になるが、誰からもその存在を認められることもなく、経済的にも乏しく、それでもつつましい生活の中に自らの幸福を見出し、自分のことが好きだ、つまり自分の生き方には後悔はないと言われる方もひょっとしたらいるかもしれない。

人が生きていく上で、多かれ少なかれ自分の思う通りに生き、それなりの地位に就き、小さな幸せを感じ生きている人の方が大部分であろう。

もう一度お尋ねしたい。

「あなたは自分のことが好きですか。」

私はこう最初に問われ時、その質問に答えてしまうと、自分の本性が見抜かれてしまうと直感的に感じ返答に窮した。

つまりは、自分のことは嫌いだというと私自身の生き方が自己否定的であり、私の思う通りには到底生きておらず、誰からも認められず、信じられる人も友人もなく、私よりも能力が劣ったと思われる人が、容量よく生き、経済的にも困窮し、その努力は、認められることはなく、私の知らない所で、私よりも劣った人が、私の上に立ち、後悔に満ち溢れた人生を生きてきたと言うに等しいからである。

ここまで、不平等を感じてしまうのは自らの責任があるのは間違いはない。

例えば、私よりも上の立場の人に、あなたの考えはこのような理由でおかしいですよ、と言ったとしよう。

そう言われた本人は、生意気なと思うかもしれないし、このような人物とは付き合うのは止めようと思うかもしれない。

人の好き嫌いでその人の能力が決定されるのはここ日本ではありふれた事実であると言っても良いと思う。

多くの優秀な研究者が海外に流出し、成果を上げているという話はよく耳にする話題である。

私はそのような優秀な人物ではないので、別に海外で自分の力を試したいなどと大それたことを思いはしないが、この日本にいると窮屈な思いをする。

九州の田舎から、大学入学のために上京した時は、大きな束縛から逃れられた気がしたものだ。

しかし、東京での十数年の生活を振り返っても、所詮は田舎以上に因習的な雰囲気を感じ、息苦しさを感じた。

どこにいようと同じかもしれない。

今更、海外に行ったとしても何ができるのか。

もうそのような歳ではない。死の方が近づいている。

このまま、静かに死を待つ以外には何も出来ないに違いない。

憎しみや恨んだりする気持ちはまだ消えることはない。

このような自己否定的な気持ちが消える日が来るのであろうか。

そのような気持ちを抱えたまま死に臨むのであろうか。

恐らく、死ぬ前にはぼけてしまい、全ての記憶はなくなってしまうのではないかと思う。

人間は良く出来ている。

死ぬ前には、子供に戻り、それまで降りかかったことなど忘れてしまうことができるのであるから。 

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竹 慎一郎

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