河竹登志夫|比較演劇学の開祖が遺した歌舞伎への情熱と学問的遺産

河竹登志夫
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河竹登志夫|比較演劇学の開祖が遺した歌舞伎への情熱と学問的遺産

演劇学者 / 早稲田大学名誉教授 / 文化功労者(1924〜2013)

2013年5月6日 逝去・享年88歳

河竹登志夫(1924〜2013)は、歌舞伎の名門・河竹家に生まれ、物理学と演劇学という二つの知を融合させ、日本に〈比較演劇学〉という新たな学問領域を切り拓いた先駆者である。その生涯は、日本の伝統芸能を世界へ発信しつづけた、まさに「架け橋」の88年であった。

1.河竹家という宿命——黙阿弥の曾孫として

1924年(大正13年)12月7日、東京に生まれた河竹登志夫は、本名を俊雄という。父・河竹繁俊は演劇研究家として名高く、その二男として誕生した登志夫には、生まれながらにして演劇との深い縁があった。

さらに遡れば、幕末から明治にかけて活躍した大歌舞伎作者・河竹黙阿弥の曾孫にあたる。黙阿弥は「三人吉三廓初買」「弁天小僧菊之助」など数々の名作を世に送り出した江戸歌舞伎の巨人であり、その血脈を引く登志夫が演劇の世界へ身を投じることは、ある意味で必然であったともいえる。

登志夫自身は後に「家を継いだ責任を果たした」と語っており、その言葉には河竹家の当主としての矜持と、学問を通じた文化継承への深い使命感が滲んでいる。

河竹家の系譜

人物続柄主な業績・役割
河竹黙阿弥曾祖父(傍系)幕末〜明治を代表する歌舞伎狂言作者。「三人吉三」など多数の名作を執筆
河竹繁俊演劇研究家。早稲田大学演劇博物館初代館長として演劇資料の収集・研究に尽力
河竹登志夫本人演劇学者。比較演劇学の開祖。早稲田大学名誉教授・文化功労者

2.異色の学歴——物理学から演劇へ

登志夫の学問的出発点は、演劇ではなく物理学であった。旧制成城高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科に入学し、自然科学の厳密な論理と実証的な思考を身につけた。

しかし卒業後、彼の情熱は演劇へと向かう。早稲田大学第一文学部演劇学科に改めて入学し、さらに同大学院へと進んだ。物理学で培った「場の概念」などの科学的思考が、後に独自の歌舞伎論や比較演劇学の礎となるのは、いかにも登志夫らしい知的な転換といえる。

大学院修了後は、米国のハーバード・エンチン研究所に客員研究員として招聘され、日本の伝統芸能を国際的な視点から俯瞰する素地を築いた。この海外経験が、のちの「比較演劇学」誕生への大きな伏線となった。

学歴・キャリアの歩み

年代出来事
旧制成城高校卒業後東京帝国大学理学部物理学科入学・卒業
帝大卒業後早稲田大学第一文学部演劇学科入学、同大学院修了
大学院修了後ハーバード・エンチン研究所 客員研究員として招聘
1964年(昭和39年)早稲田大学教授に就任
1974年(昭和49年)東京大学より文学博士号取得(論文博士)
1990年(平成2年)早稲田大学名誉教授・共立女子大学教授に就任

3.「比較演劇学」の誕生——世界を舞台にした歌舞伎研究

登志夫の最大の学問的功績は、日本に〈比較演劇学〉という新領域を開拓したことにある。彼は日本の古典演劇、とりわけ歌舞伎を、西洋演劇との比較という視座から体系的に論じた。単なる歌舞伎礼賛でも西洋崇拝でもなく、両者を対等に並べて分析する姿勢は、当時としては極めて革新的であった。

その代表的な理論が「歌舞伎の『場』理論」と「歌舞伎バロック論」である。前者は物理学の「場(フィールド)」の概念を舞台空間の分析に応用したもので、まさに理系出身ならではの発想であった。後者は歌舞伎を西洋バロック芸術と比較し、反古典主義的・バロック主義的な到達点として位置づけるもので、歌舞伎を世界文化史のなかに正しく位置づけようとする壮大な試みであった。

こうした研究は約半世紀にわたる著述によって結実し、主著『比較演劇学』は全3巻という大著にまとめられた。この業績により、登志夫は〈比較演劇学の開祖〉と称されるようになる。

代表的な学術理論

理論・概念内容特徴
歌舞伎の「場」理論物理学の場の概念を演劇空間に応用し、舞台上の力学的関係を分析理系的発想を人文学へ応用した独創的手法
歌舞伎バロック論歌舞伎を反古典主義的・バロック主義的芸術として西洋芸術と比較分類歌舞伎を世界文化史の文脈に位置づける試み
比較演劇学日本と西洋の演劇を対等に比較・分析する学問領域を体系化日本における比較演劇学の礎を築く

4.歌舞伎を世界へ——国際的な普及活動

登志夫の功績は学術研究にとどまらない。1960年の歌舞伎アメリカ公演を皮切りに、松竹の文芸顧問として歌舞伎の海外公演に延べ12回同行し、日本の古典芸能を世界に届ける実践的な活動を精力的に行った。

なかでも1961年のロシア公演は特筆に値する。当時のロシア演劇界では歌舞伎公演が極めて稀であったにもかかわらず、登志夫は団長として俳優28人・演奏家22人・補助スタッフ22人という大規模な公演団を率い、モスクワとレニングラードでの公演を成功させた。

また、ウィーン大学および北京日本学研究センターの客員教授として現地で歌舞伎を講じるなど、教育の場においても歌舞伎の国際化に貢献した。歌舞伎の海外公演後には反響調査も実施し、異文化間での受容を学術的に記録するという、研究者としての視点も忘れなかった。

主な海外活動

時期活動内容備考
1960年〜歌舞伎アメリカ公演(松竹文芸顧問として同行)以降、延べ12回の海外公演に参加
1961年歌舞伎ロシア公演(団長)モスクワ・レニングラード俳優28名・演奏家22名・補助22名の大規模公演
各時期ウィーン大学 客員教授として歌舞伎を講義欧州での伝統芸能普及に貢献
各時期北京日本学研究センター 客員教授アジアにおける日本演劇研究を支援
各時期歌舞伎海外公演の反響調査を実施・記録学術的記録として成果を蓄積

5.主要著作と受賞歴——研究者としての足跡

登志夫は、歌舞伎論・演劇論・比較文化論などにわたる膨大な著作を残した。1968年に刊行した『比較演劇学』は芸術選奨新人賞を受賞し、学界に鮮烈な印象を与えた。

1981年には、黙阿弥没後の河竹家の歴史を丹念に描いた『作者の家』で読売文学賞と毎日出版文化賞を同時受賞。厳密な考証と高い文学性を兼ね備えた本作は、学術書の枠を超えた文学作品としても高く評価された。

晩年の2013年3月28日、新歌舞伎座の柿葺落興行では「古式顔寄せ手打式」において狂言名題を読み上げ、河竹家の当主として最後の大役を果たした。その約5週間後の5月6日、心不全のため東京都渋谷区の病院で静かに息を引き取った。享年88歳であった。

主な著作一覧

書名刊行年・概要主な受賞・評価
『比較演劇学』(全3巻)1968年〜(約半世紀かけて完成)芸術選奨新人賞(1968年)
『歌舞伎美論』東京大学出版会刊第一回小泉八雲賞・ダブリン市長賞(1990年)
『作者の家』1981年刊(河竹家四代の歴史)読売文学賞・毎日出版文化賞(1981年)
『近代演劇の展開』1982年(NHK出版)
『憂世と浮世——世阿弥から黙阿弥へ』1994年(NHKブックス)
『歌舞伎』(新版)2001年/2013年新版(東大出版会)
『黙阿弥』「孤影の人」改題
『私の履歴書』2010年5月(日本経済新聞連載)

受賞・栄誉一覧

受賞・栄誉
1968年芸術選奨新人賞(『比較演劇学』)
1981年読売文学賞・毎日出版文化賞(『作者の家』)
1987年紫綬褒章受章
1990年第一回小泉八雲賞・ダブリン市長賞(『歌舞伎美論』)
1994年国際交流基金賞受賞
1995年勲三等旭日中綬章受章
2000年日本芸術院賞・恩賜賞受賞
2001年文化功労者に選出
2003年NHK放送文化賞受賞

6.要職の歴任——学界・文化界を牽引した指導者として

登志夫は研究者・教育者であると同時に、日本の演劇・文化界を組織的に牽引するリーダーでもあった。日本演劇学会会長・日本比較文学会会長・日本演劇協会会長・放送文化基金理事長・公益財団法人都民劇場理事長など、演劇と文化行政にまたがる多くの要職を歴任した。

また1991年には第13回国際比較文学会東京大会(ICLA’91 TOKYO)の組織委員長を務め、国際的な学術交流の場を日本に招致する重責を担った。学術・実践・行政の三つの側面から日本の演劇文化を支え続けたことが、登志夫の唯一無二の存在感を示している。

主な歴任要職

役職組織・機関
名誉教授早稲田大学
客員研究員ハーバード・エンチン研究所(米国)
客員教授ウィーン大学(オーストリア)
客員教授北京日本学研究センター(中国)
会長日本演劇学会(1990〜1996年)
会長日本比較文学会
会長日本演劇協会(1993年〜)
理事長放送文化基金
理事長公益財団法人都民劇場(2001年〜)
組織委員長第13回国際比較文学会東京大会(1991年)

7.学問的遺産——河竹登志夫が後世に遺したもの

河竹登志夫の生涯を通じた功績は、大きく三つの柱にまとめることができる。

第一は「比較演劇学」という新たな学問分野の確立である。日本の演劇を世界の演劇と横断的に比較・分析する手法は、当時の研究者に大きな刺激を与え、今日の演劇研究の基礎となっている。

第二は歌舞伎の国際化への貢献である。12回にわたる海外公演への同行、欧米・アジアでの講義と研究交流を通じて、歌舞伎を「日本だけの芸能」から「世界の文化財」へと格上げする大きな役割を果たした。

第三は河竹家という文化的系譜の継承と発展である。黙阿弥・繁俊から受け継いだ演劇への情熱を学問として昇華させ、その成果を書物と組織の両面で後世に伝えた。その血脈と知的遺産は、今も日本の演劇研究に息づいている。

「家を継いだ責任を果たした」——2013年3月、新歌舞伎座柿葺落の手打式を終えた直後、登志夫はこう語ったという。その言葉は、黙阿弥の曾孫として、繁俊の息子として、そして演劇学者として、生涯をかけて歌舞伎の炎を守り続けた男の、静かな満足を伝えている。

■ 河竹登志夫 プロフィール概要

生年月日:1924年(大正13年)12月7日
没年月日:2013年(平成25年)5月6日(享年88歳)
本名:俊雄 / 出身地:東京都
学位:文学博士(東京大学、1974年)
専門:演劇学・歌舞伎論・比較演劇学
所属:早稲田大学名誉教授 / 共立女子大学教授(退任)
称号:文化功労者(2001年)

参考文献: Wikipedia「河竹登志夫」/コトバンク「河竹登志夫」/河竹登志夫OFFICIAL SITE 年譜ページ/日本経済新聞 2013年5月7日付訃報記事/歌舞伎美人 訃報記事(2013年)
河竹登志夫

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竹 慎一郎

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