言葉には魂が宿っていると言われる。いわゆる言霊のことだ。
言霊を調べて見ると、Wikipedia(言霊 – Wikipedia)にはこのように定義がなされている。
“声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。”
しかし、この文章は正しいと思われるが、少し疑問も感じてしまう。
プラスのイメージを持ったポジティブな言葉、例えば、よく聞かれる言葉であるが、「ついてる、幸せ、ラッキー、上手くいく」等の言葉を繰り返し言うか、頭の中で思うと実際にその通りになるということらしい。
バカの一つ覚えのように「ついてる、ついてる」と念じているかのように言う人が多くいるが、私は非常に抵抗を覚える。
ついていないのに、ついてると言うことは、私の体の流れである根幹に反しているからだ。
体が望んでもいないことは体のリズムに反することではないかと思い私は、ついていない時には、ついていないと言うのが自然だと思う。
無理してそのような言葉によって、否定的な概念を取り払うことが出来るとは信じることはできない。
むしろ自分の心の底にある自分の声に耳を傾けた方がいいと思うのは私だけだろうか。
私が思う言霊というのは、言葉は生きているということである。
人間が生を持っているのと同じように、言葉の力は、書かれた文字にしろ、発せられた言葉にせよ、強烈な意味がそこには含まれると思う。
言葉によって死から逃れることのできた人間は、言葉の呪縛から逃れることはできないのであろうが、その代わりに、死に至るまで言葉は尽きることはないので、言葉によって私たち人間は生きていくことが出来ると思う。
言葉のない世界。それは死の世界だ。沈黙とは死の代用語かもしれない。
言葉の中には、意味がある。
一つの言葉には一つだけの意味があるとは限らないので、そこで誤解が生じてしまう。コミュニケーションは言葉の意味によって断絶してしまう。しかし、その言葉の意味が元になる、コミュニケーションの断絶を解き放ってくれるのも言葉でしかない。
人間は言葉を有する生き物である。他の動物にも言葉はあるのかもしれないが、人間は言葉を与えられ、言葉によって生きることも死ぬことも作用されてしまう不自由な存在とも言えるのではないか。
小さな野に咲く草花は、風に揺られて生きている。言葉は必要としないかに思える。
私は、野に咲く小さな草花に嫉妬の気持ちさえ覚えてしまう。
何と自由なのだろう。
人間は言葉を有する代わりに何と不自由になってしまったのだろうと感じてしまう。
しかし、そのような私ですら言葉によって生かされているので、せいぜい言葉と仲良く付き合っていくしかない。
もし、私の言葉が、他の人に触れてその人の気持ちが生きる上で役にたつとするならば、こんなに嬉しいことはない。
言葉の力。意味の力。その呪縛から人間は決して逃れることのできない不自由な存在ではあるが、その言葉によって生かされ、また人間を死から遠ざける力もあるのだとおもう。
言葉のない世界に必然的にいくことになるので、そこに辿り着くまでは、言葉と葛藤すると同時に言葉によって救われて生きていくことになるのであろう。
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