朝ドラ「風、薫る」が描く知られざる先駆者
明治のナイチンゲール
大関和(おおぜき・ちか)の生涯
2026年度前期のNHK連続テレビ小説「風、薫る」。主人公・一ノ瀬りんのモチーフとなったのが、明治時代に「日本のナイチンゲール」と呼ばれた大関和(おおぜき・ちか)です。看護師という職業がまだ社会に確立していなかった時代に、なぜ彼女は看護の道を選び、何を実現しようとしたのでしょうか。今回は大関和の波乱に満ちた歩みをたどりながら、その生き方が令和の今を生きる私たちに何を語りかけているのかを考えてみます。
武家に生まれ、離婚という異例の選択をした前半生
大関和は安政5年(1858年)、下野国黒羽藩(現在の栃木県大田原市)の家老の家に生まれました。武士の娘として育った和は、18歳のころに結婚し、一男一女をもうけます。しかし結婚生活は長く続かず、明治という時代にあって女性の側から離婚を申し出るという、当時としては極めて異例な選択をします。
二人の子どもを抱えたまま、和は明治14年(1881年)ごろ、子どもたちを連れて上京しました。子連れで離婚した女性が自分の力だけで生きていくことは、決して容易な時代ではありません。和もまた、生活のために多くの苦労を重ねたと伝えられています。
28歳での再出発―桜井女学校附属看護婦養成所への入学
東京に出た和は、牧師・植村正久と出会い、キリスト教の教えに深く感銘を受けます。植村のすすめもあり、明治19年(1886年)、当時できたばかりの桜井女学校附属看護婦養成所に第一期生として入学しました。すでに28歳になっていた和にとって、これは決して早い時期からの出発ではありません。しかし人生の苦境のただ中で新たな学びへ踏み出したことこそが、大関和という人物の強さを物語っています。
ナイチンゲールの“孫弟子”として学んだ看護学
養成所では、エジンバラ王立救貧院病院看護学校の卒業生であるアグネス・ヴェッチから直接指導を受けました。ヴェッチはフローレンス・ナイチンゲールの教えを受けた人物であり、和はいわば“ナイチンゲールの孫弟子”にあたります。和はここで、清潔・換気・衛生管理を重んじる近代看護の理念と技術を身につけていきました。同級生には、後に看護婦という職業の確立に大きく貢献した鈴木雅(すずき・まさ)もおり、雅もまた和と同じくシングルマザーでした。二人は互いに支え合いながら、看護の道を歩んでいきます。
明治21年(1888年)、和は養成所を卒業し、正規の訓練を受けた看護師「トレインド・ナース」となりました。この年は慈恵看護婦教育所や京都看護婦学校もそれぞれ最初の卒業生を出しており、日本における近代看護誕生の年と位置づけられています。
帝国大学第一医院での挫折―待遇改善の訴えと解雇
卒業後、和は実習先であった帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)で、外科の看病婦取締として働き始めます。抗生物質のない時代、衛生管理に基づいた術後の看護はトレインド・ナースの専門性が最も発揮される分野でした。和が担当した患者の術後経過は良好で、その評判は次第に広まっていきます。
しかし現場には大きな問題がありました。看護婦の仕事は連日多忙を極め、学ぶ時間すら確保できないほどの労働環境だったのです。和はこの状況を見過ごせず、教授に向けて看護教育の充実と看護婦の待遇改善を求める建議書を提出しました。
「わきまえない女」とみなされた時代背景
当時は「男を立てる」ことが当たり前とされた時代であり、看護婦の立場から医師に意見することは、秩序を乱す行為と受け取られても不思議ではありませんでした。和の訴えは医師たちの反感を買い、結果として彼女は第一医院を去ることになります。在職期間はわずか2年ほどでした。
ここには、現代の看護現場と驚くほど似通った構造が見えてきます。慢性的な人手不足、過密な労働環境、そして声を上げにくい職場の空気。明治の時代から100年以上を経た今もなお、看護師の働き方を巡る課題は形を変えながら残り続けているのです。

「慈愛と奉仕」の精神とともに―高田女学校、そして知命堂病院へ
第一医院を離れた和は、その後も看護の道を諦めませんでした。明治23年(1890年)、桜井女学校の分校であった高田女学校(現在の新潟県上越市)に舎監兼伝道師として赴任します。そこで和は、第一医院時代に指導を受けた瀬尾原始と偶然再会します。瀬尾は当時、知命堂病院の初代病院長を務めており、和の優れた手腕を見込んで看護婦長として招きました。
知命堂病院で和は、初代看護婦長としてその力を存分に発揮します。当時、コレラや赤痢といった感染症がたびたび流行し、人々から強く恐れられていました。和はそうした感染症患者の隔離病棟(避病院)における集団看護にも進んで取り組み、100人前後の患者を収容しながら死者を数名にとどめたという実績を残しています。感染を恐れず患者のもとへ駆け寄る姿勢、そしてそれを支える衛生観念の徹底こそが、和の看護の核にある「慈愛と奉仕」の精神でした。
大関和のおもな歩み
※年代は史料により多少の前後があります
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 安政5年(1858年) | 下野国黒羽藩の家老の家に生まれる |
| 明治9年頃(1876年頃) | 18歳で結婚、一男一女をもうける |
| 明治14年頃(1881年頃) | 離婚し、子どもを連れて上京 |
| 明治19年(1886年) | 桜井女学校附属看護婦養成所に第一期生として入学(28歳) |
| 明治21年(1888年) | 養成所を卒業しトレインド・ナースに。帝国大学医科大学附属第一医院に勤務 |
| 明治23年(1890年) | 待遇改善の訴えにより第一医院を退職。高田女学校(上越市)に赴任 |
| 明治20年代後半 | 知命堂病院の初代看護婦長に就任 |
| 昭和7年(1932年) | 死去 |
派出看護婦会の会頭として、後進を育てる
和はその後、鈴木雅が設立した東京看護婦会(派出看護婦会)にも関わり、雅が引退する際にはその運営を引き継ぎ、会頭として後進の育成にも力を注ぎました。和と雅は互いについてほとんど書き記していないと言われますが、それは常に隣にいながらも、互いに前を見て進んでいたからかもしれません。和はまた『実地看護法』という著書を残し、自らの看護実践を文章として後世に伝えています。専門性を言語化し、教育として継承しようとした姿勢にも、和の先駆者としての意識がうかがえます。
明治の看護現場と令和の看護現場―変わらない「人手不足」という課題
コロナ禍を経て、看護師は「エッセンシャルワーカー」としてその重要性が改めて社会に認識されました。しかし現場における人手不足や厳しい労働環境という課題は、決して新しいものではありません。大関和が生きた明治期にも、看護婦の仕事は「金のために汚い仕事も厭わず、命まで差し出す賤業」とすら見なされ、待遇改善を訴えただけで職場を追われるという理不尽がありました。
国家資格を持ちながらも現場を離れている「潜在看護師」が少なくないという現代の課題は、看護という仕事に見合った評価や処遇が、今もなお十分に整っていないことの裏返しなのかもしれません。大関和の物語は、単なる歴史上の偉人伝としてだけでなく、現代の医療現場が抱える構造的な問題を映し出す鏡として読むことができます。
大関和の歩みが、今を生きる私たちに語りかけること
離婚という当時の社会規範から外れた選択をし、28歳という決して早くない年齢で新しい学びに踏み出し、理不尽な解雇を経験しながらも看護への思いを失わなかった大関和。その人生は決して平坦なものではありませんでした。しかし和はそのつど自分の意思で次の一歩を選び続けています。
人生の選択肢が乏しかった時代に、新たな選択肢を自ら切り開いていった和や雅のような人々がいたからこそ、今日の看護という仕事、そして近代医療のあり方が形づくられてきました。「風、薫る」を通して大関和という人物に触れることは、私たちが当たり前のように享受している医療や看護のかたちが、決して当たり前ではなかったことに気づかせてくれます。
まとめ
大関和は、武家の娘として生まれながらも離婚という異例の道を選び、28歳で看護の世界に飛び込み、「明治のナイチンゲール」と呼ばれるまでの足跡を残しました。帝国大学第一医院での解雇という挫折を経験しながらも、知命堂病院で初代看護婦長として再起を果たし、「慈愛と奉仕」の精神を貫いた彼女の生涯は、現代の看護現場が抱える人手不足や労働環境の問題を考える上でも、多くの示唆を与えてくれます。「風、薫る」をご覧になる際は、ぜひ大関和という実在の人物の歩みにも思いを寄せてみてください。

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