2026年5月 / ヴェネチア・ビエンナーレ 日本館
ヴェネチア・ビエンナーレ2026 日本館
荒川ナッシュ医「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」開幕
——ドイツ・日本への巡回も決定
主催:国際交流基金(JF) / 会期:2026年5月9日〜11月22日
2026年5月9日、第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展が開幕した。日本館では、クィアアーティスト・荒川ナッシュ医による展覧会「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」がいよいよその幕を開ける。国際交流基金(JF)が主催するこの展示は、世界的な地政学的変動と個人的な育児体験が交差するところから生まれた、深く問いかけに満ちた空間だ。
展示の背景——戦争の影と子育ての現実が交わる場所
荒川ナッシュ医は、戦後日本の平和教育を受けて育ち、20代前半にアメリカへ移住したアーティストだ。2024年には男性パートナーとの間で双子の子どもを授かり、初めて「親」となった。その体験は、彼女の作品制作に決定的な変化をもたらした。
共同キュレーターが記すように、本展はジェノサイドや戦争が激化する世界情勢の中で生まれた。「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」というタイトルは、柔らかくも力強い生命のイメージを喚起する。荒川ナッシュは、自らのアイデンティティや歴史への省察を出発点に、「未来を生きる子どもたちのために、私たちはどんな世界を作っているのか」という根本的な問いを、展示空間全体で観客に向けて投げかける。
日本館の設立70周年というタイミングに重なるこの展示は、単なる個人的な記録ではない。それは、アメリカでアジア系ディアスポラとして生きる作家の視点から、国家・世代・生命をめぐる普遍的な問いを立ち上げようとする試みだ。
208体の赤ちゃん人形——観客は「ケアラー」であり、「見られる者」でもある
日本館の空間に足を踏み入れた観客を迎えるのは、208体の赤ちゃん人形たちだ。観客はそれらの「ケアラー」としてパフォーマンスに参加することを求められる。人形の世話をすることで、「ケア」という行為そのものを体験的に問い直す仕掛けだ。
しかし、この展示には逆転の視線がある。赤ちゃん人形たちはサングラスをかけており、そのレンズには観客自身の姿が映り込む。ケアをする側だと思っていた観客は、実は赤ちゃんたちに「見つめられている」存在でもある。
その視線は問いかける——「あなたたちは、私たちが安心して生きられる世界を作っているか」と。ケアを与える者と受け取る者の関係が、静かに、しかし鋭く反転する瞬間だ。この構造こそが、本展のもっとも核心的なメッセージと言えるだろう。
展覧会の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 展覧会名 | 荒川ナッシュ医「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」 |
| 会期 | 2026年5月9日(土)〜11月22日(日) |
| 会場 | 日本館(ジャルディーニ地区内) |
| 出品作家 | 荒川ナッシュ医 |
| 共同キュレーター | 高橋瑞木(CHAT香港)、堀川理沙(シンガポール国立美術館) |
| 主催/コミッショナー | 国際交流基金(JF) |
| 特別助成 | 公益財団法人石橋財団 |
| 公式サイト | venezia-biennale-japan.jpf.go.jp/j/ |
国境・世代・ジャンルを超えたコラボレーション
本展の大きな特徴の一つは、極めて多彩なコラボレーターたちの存在だ。イラストレーターのR・キクオ・ジョンソン、彫刻家イサムノグチの作品(1958年制作「Baby Figure」)、ライターの石井ゆかり、作曲家サージ・チェレプニン、アーティスト崔在銀(チェ・ジェウン)など、時代も分野も国籍も異なる表現者たちが一堂に介している。
特筆すべきは、隣接する韓国館との連携だ。韓国館2026(代表作家:チェ・ゴウン、ノ・ヘリ、キュレーター:チェ・ビンナ)との対話的な関係が、日本館の展示に独特の地政学的文脈をもたらしている。歴史的に複雑な関係を持つ日韓が、芸術の場で声を重ねるという試みは、この展示が持つ「唱和」の精神をもっとも象徴的に示している。
また、福島の荒川美和子と友人たちが手縫いしたベビー服が展示に用いられていることも重要だ。東日本大震災・原発事故以降の福島という場所性が、「未来の子どもたちへのケア」というテーマに静かに織り込まれている。

会期中の関連プログラム——パフォーマンス、ワークショップ、オペラ
本展では会期中を通じて、多彩なプログラムが予定されている。開幕直後から閉幕まで、展示空間を超えた体験が積み重なっていく構成だ。
| 日程 | プログラム内容 |
|---|---|
| 5月9日(土) | 子どもワークショップ(12:00〜13:00)イサムノグチ「Baby Figure」(1958年)を題材に、ヴェネチアの子どもたちを対象に開催 |
| 5月10日(日) | パフォーマンス:FAC XTRA RETREAT(16:00〜)荒川ナッシュ医ほか7名のアーティスト・コレクティブによるパフォーマンス |
| 5月13日(水) | 荒川ナッシュ医による子どもツアー①(11:00〜) |
| 8月24〜28日 | ワークショップ:荒川ナッシュ医+End of Summer。カ・フォスカリ大学研究者・学生とクリエイティブトランスレーション/パフォーマンスを探求 |
| 会期中(詳細未定) | オペラ「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」モアザンミュージカル with 荒川ナッシュ医 |
| 11月20日(金) | 荒川ナッシュ医による子どもツアー②/夜のサウンドリスニングイベント「雲の赤ちゃん、夜の赤ちゃん」 |
| 11月22日(日) | クロージングパフォーマンス:荒川ナッシュ医+End of Fall。日本館のカーボンフットプリント調査からインスピレーションされた最終公演 |
なかでも注目されるのが、会期中に上演されるオペラだ。「モアザンミュージカル」と荒川ナッシュ医がコラボレーションするこの作品は、展示タイトルと同名であり、視覚芸術と音楽・舞台表現が融合する試みとなる。
「Visitors’ Lions」賞の新設——今年の授賞式は来場者投票で
第61回ヴェネチア・ビエンナーレでは、授賞式に大きな変更がある。例年5月の開幕時に行われてきた授賞式は、今回は一般公開最終日の11月22日(日)に延期されることとなった。
さらに、最高賞「金獅子賞」をはじめとする従来の国際審査員による選考に代わり、会期中の来場者による投票で決定する「Visitors’ Lions」賞が新設された。「Best Participant in the 61st Exhibition In Minor Keys」と「Best National Participation」の2部門が来場者の手によって選ばれる。
この変更は、芸術の評価を専門家だけでなく、一般の鑑賞者に開く試みとして注目される。日本館の展示が「ケア」を観客に問いかけるものである点と、来場者が賞を決めるというこの新方式には、奇妙な共鳴がある。
ドイツ・日本への巡回——展示はヴェネチアで終わらない
ヴェネチアでの会期終了後、本展は国際巡回へと移行する。以下の表に巡回スケジュールをまとめた。
| 会場 | 会期 | 主催 |
|---|---|---|
| ヴェネチア(イタリア) 日本館 ジャルディーニ地区 |
2026年5月9日〜11月22日 | 国際交流基金(JF) |
| ハノーファー(ドイツ) ケストナー協会 |
2026年12月12日〜2027年2月28日 | ケストナー協会 |
| 東京(日本) アーティゾン美術館 6階展示室 |
2027年6月19日〜9月20日 | 石橋財団アーティゾン美術館/国際交流基金 |
ドイツのハノーファーにあるケストナー協会は、現代美術の発信地として知られる歴史ある機関だ。その後、東京・アーティゾン美術館での帰国展へと続く。日本のオーディエンスが、ヴェネチアで生まれた問いをどのように受け取るのかも、大きな注目点となるだろう。
この展示が問いかけるもの——今、ここで「ケア」について考えること
「草の赤ちゃん、月の赤ちゃん」は、ひとりのアーティストの個人的な体験から生まれながら、世界規模の問いを持つ展示だ。戦争が続き、生命が脅かされる現実の中で、「未来の世代のために何を残すか」という問いは、誰もが向き合うべきものでもある。
208体の赤ちゃん人形が観客を見つめる空間に立ったとき、私たちは問われる。自分はケアする側なのか、それとも問われる側なのか——その境界を揺さぶることこそが、荒川ナッシュ医がこの展示に込めたメッセージだろう。
ヴェネチア・ビエンナーレという世界的な舞台で、日本発のアートがこれほど鋭く、優しく、そして力強く声をあげている。その声はヴェネチアからハノーファーへ、そして2027年には東京へと届けられる。
▶ 公式情報・詳細はこちら
日本館公式サイト:venezia-biennale-japan.jpf.go.jp/j/
公式Instagram:@japan_pavilion_vb2026
アーティゾン美術館:artizon.museum

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