グッドバイ。0の世界。そこでは、多数決は通用しない。

梅雨に入って、6月になった。

雨は降らず、天気がいい日も続いている。

外に出かけることもなく、

何もする気になれず、

時間だけが流れていく。

政治家たちは自らの権利をふるい、

事実が1日1日と変わり、

報道されている。

何を言おうが、

見向きもされない。

何を書こうが、何を思うが、

相手にもされない。

当然のことながら、

バカな阿呆のたわごとに

付き合ってくれる人は

誰一人としていない。

では、この文は誰に書いているのと自分に問う。

自分のために書いている文章など

誰からも見向きもされない。

いや、むしろ害を及ぼしているのかもしれない。

遠くの空は、灰色で覆われ

何も語りかけてはくれない。

誰のためにも

役には立つこともなく

時間が過ぎるのを

じっと待つしかない。

こんな世の中を分析して

その悪を暴いたとしても

多数決で負けてしまうだけだ。

真実など

ありはしないと思ってはいたが、

まさか多数決で物理学的事象さえ

通用しないとは思っていなかった。

どこに行こうが

誰も関せず

何も思われず

消えてしまっても

0にもなれない。

人口が1人減ったとしても

マイナス1にはなることはない。

誰からもかまわれず

誰からも憎まれず

いなくなろうが

何の変化も起こらない。

憎しみだけしか

自分には残っていないのであろうか。

憎しみは、遠い過去に変わることは

果たして来るのであろうか。

10代の頃、

20代は来ないと思っていた。

20代になると30代が来ることさえ

忘れてしまい

年月を重ねた。

10代の時のまま

結局何も変わりはしなかった。

様々な出来事がこの何十年という間に起こったに違いないが、

思い出そうとしても

思い出せない。

覚えているのは10代の頃

20代は来ることはないと

本気で思っていたことだけ。

残されているのは、

忘却へと

深遠な

無に帰ることを待つしかない。

無は0だ。

多数決の論理は通用しない。

無には時間さえないと思う。

そんな無にあこがれる日々が

一体いつまで続くのだろう。

産まれてくる以前に

戻る日はいつなのだろうか。

泣きながら産まれてきたと思うが、

私にはそんな記憶は残っていない。

せめて無に帰る時には

生きている状態であることが

分からない状態であるといいと思う。

無に帰る瞬間が分からないとしたら、

こんなに素晴らしいことはない。

さよなら、私。

これまでよく生きました。

後は、ボケるのを静かに待とう。

ボケていく瞬間も分からないだろうが、

きっと来ると思う。

母は死んだことは分からなかったはずだ。

でも、父は最後には、もう逝きたいと言って

苦しみながらの最後であった。

父のように逝くかもしれない。

母のように逝くかもしれない。

そんなことなど分かりはしないが、

どうせなら、無に帰る瞬間は分からない方がいい。

明日が来るかもしれないなどと考えることもなく、

眠るように無に帰る。

なかなかのグッドアイデアだ。

本を読み

戯曲を読み

もう少しだけ

待ってみるしか

残された

道はない。

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竹 慎一郎

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