「スプートニクの恋人」 村上春樹 レビュー 現実と非現実のはざまの中で。

スプートニクの恋人 村上春樹

村上春樹全作品集1990~2000(講談社)の中にある2つの小説の2作目にこの作品が入っている。「国境の南、太陽の西」を読み終え、「スプートニクの恋人」を読み終えて3,4日経過した。何をどう書こうか大いに迷ったのだ。それは、「スプートニクの恋人」の最後に作者村上春樹の解題があったためである。

「国境の南、太陽の西」が「ねじまき鳥クロニクル」の一部分を切り離したものであるとは知らなかったのであるが、(ねじまき鳥は読んでいない)「国境の南、太陽の西」はその作品だけで独立した作品であると思い何の不自然さも感じなかった。作者は大いに苦労したようであるが。しかし「スプートニクの恋人」は、作者の意見を読み、それを考える時間が私には必要であった。作者の意見を逸脱するような文章は書きたくないというのが本音である。間違った文学批評によく見受けられるひとりよがりの感想文には決してしたくはなかった。

スプートニクという人口衛星2号に取り残されたライカ犬のことは、作者の注を読まなければ分からなかったのであるが、宇宙をぐるぐる周り続けて死に至る犬のことはこの小説を暗示していると思い頭から離れることはなかった。しかし、この宇宙にただ一匹残さてた犬の話はこの作品の中には直接は触れられてはいない。しかし、この「スプートニクの恋人」とあるように、その中心人物はすみれとミュウのことではないかと思い、その関係はスプートニクに残された犬のようなものに違いないと思いながら、読み進めていった。

それにしてもこの小説の多彩とも言える比喩は一体何なのだろう、あまりにくどすぎるのではないと思っていたのであるが、私のその思いは当たっていたことが解題を読んで分かった。村上春樹はこの小説に自分自身の小説の文体の脱去を求めることを試みたということが解題の中に書かれていたので、この比喩の多さは作者自身の固有の文体の脱局を求めるために必要であったのである。

この小説が現実なのか否かの選択は読者に任せると、作者は書いているので、この小論はすみれが思いを綴ったように書いて見ようと思う。

人は夢をみる。夢は非現実的である。何せ頭の中で繰り広げられる実態を持たないものであるから。しかし、実態がないからと言って、その夢が現実とかけ離れているとは思えない。夢はある意味では現実そのものであり、かつ非現実なものであろう。更に言えば、夢を見ている時、もうひとりの夢を見ている人物(もう一人の私)が、夢を今見ていると感じることもある。特に眠りが浅い時に。夢の展開を良い方に展開しようとする人物(私)がいることは間違いないと思う。そのような経験は何度も味わっているので。

つまり、夢は非現実的であるのと同時に、現実に近いものであるのも確かではないかと思うのであるが、その夢を何とかコントロールしようとする存在を考えるのであれば、夢の中の非現実は現実味を帯びて、現実的な夢は非現実になりうると言えるのではないかと思う。

「スプートニクの恋人」に登場する人物は、現実的でありかつ非現実味を帯びていると思う。そのように読むとこの小説が意図するものがよく分かると私には思えるのである。

ギリシア

スプートニクに残された犬、ネコが木に登ったままいなくなったというエピソード、人食いネコ、そして、すみれがギリシアの孤島で突然姿を消し、その行方不明の原因も何も読者には知らされることはない。そこでは現実と非現実が交差する。また、ミュウが観覧車の中で一夜を過ごした時に自分のアパートの中にもうひとりのミュウの姿を見るという非現実的な深層的な体験は、現実味に深さを増すのである。

小学校の先生の「ぼく」(K)と名付けられた人物は、すみれとミュウの間に入り、非現実に現実味を加える。にんじんの話は後で付け加えられたらしい。ゆえに、この小説は、単なる同性愛の話ではないのである。いなくなったすみれは、「ぼく」(K)の元に帰っていく。

村上春樹は、解題の中でこの「スプートニクの恋人」を書くことは楽しかったと書いているが、作者の想像力がふんだんにちりばめられた傑作だと思う。

Youtube の映像は、すみれが子供の頃に良く聞いていたギーゼキングのピアノ伴奏、すみれである。

すみれ
スプートニクの恋人 村上春樹

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竹 慎一郎

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