日本には、私小説という固有の文化がある。「私」が主人公という書き方である。主人公の名前が、著者の名前でない場合においても、自分を投影させた人物が登場する場合が極めて多い。私たちはあまりにもこのような本にさらされているため、それが当然だと思っているが、他国の文学を日本文学と同じように読む場合、決定的な間違いを犯すこともあり得る。
私たち日本人は、本の中に著者が誰なのかを探り、著者の思考や考え方、またはどんなことを本という媒体を通じて言わんとしているのかを探ろうとする。それは間違ってはいない。何故なら、大部分の作家たちは、自分の考えや言わんとしていることを本の中で語っているのはほとんどの場合、間違いないからである。
日本人にとって日本文学の中に著者を探し出し著者の主張を読み取ろうとするのは慣れ親しんでいてむしろ簡単であろう。日本人以外の外国人にはそこが難しく感じられるらしい。
もちろん、日本文学以外にも、著者の主張を、他の人物を借りて述べることはよくあることだと思う。宗教が複雑に絡み合った他国の文学においても、ある意味において、本の中に著者の姿を探す読みはどの文学でも共通のものであるかもしれないが、そうでない場合もあるのである。
例えば、シェイクスピアの場合を考えていきたい。シェイクスピアの作品の中にシェイクスピアの存在を探ろうとするととんでもない間違いを犯すことになる。ハムレットの独白やマクベスの台詞の中にはシェイクスピアの姿はない。シェイクスピアの作品の中にはシェイクスピアの姿は存在しているのかもしれないが、まず存在しないと思って鑑賞した方が良い。
大学生の卒業論文の中には、シェイクスピアの主張を登場人物の中に見出し、論を展開する方法がよく見られるのであるが、根幹から間違った読み方である。私小説に慣れ親しんでいる日本人は、シェイクスピアの劇中にシェイクスピアの存在を見つけようとして、シェイクスピアの主張をまとめるやり方を取るが、それは根底から間違っていることである。
私も初めはそのようにシェイクスピアを読んでいた。リア王の中にはシェイクスピアの主張があると思っていた。その読み方が普通の文学を読み取る方法だと感じて疑いはしなかったが、それは間違いだと言われ、その時のショックは忘れられない。
菅泰男先生は、はっきり言い放った。
「シェイクスピアの作品の中の登場人物の中にはシェイクスピアはいないと考えなさい。個々の人物たちは、それぞれ個性を持った人物でそこに息を吹き込んでいるのはシェイクスピアであることは間違いないことであるが、シェイクスピアは登場人物の中に自分の主張を述べている訳ではありません。」
菅先生は関西の出身なので、関西弁で話された。口調は穏やかであったが、そう語る菅先生の言葉に、私は今までの固定概念を打ち砕かれ途方にくれたものである。
私は、これを理解するまで相当な時間を要した。しかし、そのように考えてみるとシェイクスピアが分かるようになったと思う。
私は、文学作品の中に、著者の姿があるとは限らないという基本的なことが30歳手前まで分からなかった。菅先生の読みが独特なのではない。そのように読まなければその本を理解することはできない場合もあるということである。
もちろん、ユージン・オニールの作品にはオニールがいる。
しかし、シェイクスピアの作品の中にシェイクスピアの姿を見つけ出さずに鑑賞するとシェイクスピアの作品が尚一層面白くなると思う。
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