“To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,”
「明日が、そして明日、そして明日」
シェイクピアのマクベスの5幕5場の有名な台詞である。
死を確信したマクベスは、こう語る。
絶望に満ちた今日が、明日も、明日も、延々と続くのであれば、
人は死を意識するのではないだろうか。
希望がないマクベスはもう絶望に包まれ死に向かうのみである。
そして、こう続く。
”it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Sygnifying nothing” (An Alexander Text of the Complete Works of Shakespeare, Colloins)
「それは、白痴によって
語られる物語、響きと怒りに満ち溢れているが、
何の意味はありはしない。」(試訳)
何の意味もない人生であれば生きる価値はない。
残されたものは死のみである。
William Faulkner が、この一節をとり「The Sound and the Fury」を書いたのも有名である。
白痴のベンジーには時間も空間の区別はない。ただ、彼にあるのは自分の前に流れていく事象
でしかない。フォークナーはよく、後ろ向きの小説家と言われるが、彼がマクベスの台詞に
魅かれたのも無理はないだろう。
この状態を打破するには、人間は何をすれば良いのだろうか。
ユーモアも必要であろう。それは静かに人間に流れる源流のようなものであると前のブログで書いた。
私は、先日テレビ番組を観ていて、このような台詞に偶然出くわした。
Curiosity killed the cat. 「好奇心はネコをも殺した。」
調べて見ると、イギリスのことわざらしい。
The cats has nine lives. 「ネコは9つの命がある。」
ネコは沢山の命があってなかなか死なないのであるが、好奇心を持ったネコは死んでしまうという意味らしい。
私は、直ぐにパンドラの箱を思い出した。
この世に悪という悪、妬み、嫉み、裏切り、人殺し等なかった時、
人間で初めて好奇心を与えられたパンドラは、開けてはいけないと言われた箱を
好奇心がゆえに開けてしまう。箱の中に入って封印されていた悪という悪が
この世に飛び出していってしまった。そのおかげで、人間は悪に立ち向かわなければならなくなった。
しかし、箱の隅に小さく光る玉があった。
希望である。
人間はどのような状態でも希望があれば生きていけるという訳だ。
私は、太宰治の「パンドラの箱」を読み、ギリシア・ローマ神話の翻訳を読んだのだが、
恐らく、人間は好奇心があればある種の希望も持てるのではないかとテレビ番組を観ながら改めて考えが頭をよぎったのだが、もし、絶望が深く、好奇心も希望も持てないとしたらどうすれば良いのだろうか。
余命わずかな人間に、好奇心や希望を持てと言ってもそれは不可能ではないのか。
考えが錯綜し混乱する。
今日と同じ明日がまた明日訪れるとしても、人間は生きていかなければならない。
自らの寿命を自ら決めることは許されないと思う。そう思う気持ちの理由を明確に書き記す力は私にはないのであるが、生を受けたのも偶然であるのだから、死も同じ自然の摂理に従うのが良いと思われる。
寒い日が続いているが、窓から外を見上げると青空が広がっている。
所詮、人間は大自然に比べればちっぽけな存在にすぎないであろう。
自然に逆らうことなく、静かに穏やかに。
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