あの時、まだ私が大学生の頃、もう何十年も前のことだが、今でも忘れられない人がいる。
と言っても、彼女が今何をしているかもどこに住んでいるのかも分からない訳だが、昔の淡い思い出と言ってもいいのかもしれない。
大学が終わると帰る方向が同じだったので、よく新御茶ノ水から千代田線で一緒に帰ったものだった。
いろいろな話をするうちに、少しづつ心がひかれていくのを感じたが、はたから見ると私たちは兄弟みたいに見えていたらしい。
私の親友の鈴木君がそう言った。
確かにそうだったのかもしれない。なぜなら私は理由は分からないが、電車を1本送らせて彼女と帰るのを避けようとしたことがあった。
遅らせたはずの電車に、彼女が後ろから話しかけられどぎまぎしてしまった。
「私を避けているでしょう」
彼女は私の行動に気づいていたのだ。その場はどうにかやり通したのだが、逆に私は彼女にひかれていくのが怖かったのかもしれないと今は思う。
夜、飲み会の帰りも彼女と同じ千代田線に乗っていた。
私の降りる駅が近づいた。
彼女は「これからマックに行かない?」
「こんな遅いのだから今日はもう帰ろうよ。」
彼女はそうね、と言ったが何ということをやってしまったのだろう。彼女からの誘いを断るなんて。
そう、その時はまだ自分の気持ちははっきり定まっていなかったのだろう。
こんなこともあった。
彼女のアパートの近くでデートとは言えないが、お茶に誘ったことがあった。
私のアパートから彼女のアパートまでは自転車で10分位の距離だったと思う。
まだ、CDではなくレコードの時代。
彼女に会うと彼女は何枚かのレコードを小脇に抱えていた。
「これ、返してくるから待ってて」
私は、どんな曲聞いているの?と当たり前のように聞いたのだが、彼女から発せられた言葉には返す言葉はなかった。
「私こんな曲が好きなの。このアルバム何て最高よ。とでも言わなければならないの!」
怒られる筋合いはないと感じたが、その口調は今でも忘れられない。気分を害していたのは間違いないが、そこまで言われることもないだろうというのが本音だった。
一緒にお茶するどころではなくなってしまった。
大学を卒業し、彼女に誕生日のプレゼントを買って彼女に渡そうと思い電話して駅まで来てもらおうとしたのだが、彼女は断って電話を切ろうとしたが、渡すだけだからと言って無理に来てもらったこともあった。
丸井で買った5000円位の置時計。
彼女の態度は迷惑だということはすぐに分かったが、その小さな箱を彼女に渡すと何も言わずに踵を返した。
ありがとうという言葉もなかった。
それからは、年に1回誕生日の日に短い電話をした。おめでとうと。
それが、5年以上続いたと思う。
私は、その時もまだ彼女のことが吹っ切れていなかったのだ。彼女の嬉しそうな声が聞こえててはきたが、社交辞令だったのかもしれない。
それが最後だった。
夜、2時過ぎに電話が鳴った。
その日は彼女の誕生日の翌日だったと思う。もう私は彼女の誕生日に電話することが出来なかったのだが、直感的に彼女ではないかと思い、もしもし、どちら様ですか?と必死に呼びかけたが無言のまま電話は切れた。
その日の夜、思い切って彼女に電話した。
電話は使われていないという機械音が流れてくるだけだった。
いつかは君のこと
何も感じなくなるのかな。
今の痛み抱いて
眠る方がいいかな。(瞳をとじて)
寝る前に、いつもyoutubeで聞く曲に交じって、彼女が突然歌いだしたかのようだった。
か細い肩幅の狭い華奢なからだ。
マイクが口元を覆い口元は見えない。
平井堅の名曲だが、菅野恵という歌手のカバーであった。
菅野恵という歌手を知ったのは、偶然だった。
HPを見ると、もうお子さんもいるとのこと。素顔はお母さんの顔。
でも、「瞳をとじて」を歌う彼女はまるで高校生のような顔をしている。
その歌声は素直な声で着飾った歌ではない。
それから彼女がたくさんのカバー曲を歌っているのを知り1日に何度も聞くようになった。
あの頃が思い出される。
何も感じなくなった日々が確かに多くはなったのは事実ではあるが。
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