拝啓 尾崎俊介 様
本来ならば手書きで先生へお手紙しなければ失礼とは思いますが、このご時世、本の中でも尾崎先生が、須山先生へお手紙をワープロで書かれていることと同じ理由で、便利なパソコンのワープロにて失礼させて下さい。
尾崎先生の略歴を拝見しますと、1963年神奈川県のご出身だと本の最後に書かれていて、Wikipediaにも同じように記されていますので、1963年の何月のお生まれなのかがはっきりと分からないのですが、うさぎ年のお生まれなのだと思います。と申しますのは、私は1963年の4月の生まれなので、もしかしたら同じ学年ではないかと思ったからです。1月から3月のお生まれならば、私より一つ学年は上になると思います。そんなことはどうでもいいことのように思われますが、気になることがあるからです。私は、1年浪人して、明治大学文学部文学科英米文学専攻に、昭和58年に入学しました。尾崎先生はもちろんストレートで慶應にご入学されたと思われますので、少なくとも、大学は尾崎先生の方が、学年は一つ、ないし2つ上ということになります。
大学生活は恐らく2年から3年重なっていると容易に察することが出来ます。
須山先生は、大学で初めて行われるクラスのオリエンテーションで、左手で黒板にローマ字でお名前を逆向きから書かれて自己紹介されたのを、本を読んで思い出しました。
尾崎先生が克明に記述されている内容の1部が、明治大学においても共通の所が多く、こんなことまでご存じなのかと失礼かもしれませんが非常に驚きました。
「S先生のこと」の発行日は2013年2月20日となっていますので、2021年12月現在から、8年前に出版されたということになります。出版されたことは2013年頃に知ってはいたのですが、同じように須山先生の死、また「墨染めに咲け」が2008年に出版されていたことにも英語青年か何かで知ってはいました。
「墨染めに咲け」の書評を目にした時、私は怖くなりこの本は読んではいけないと直感で感じとり言葉は変ですが、封印してしまったのです。同じことが尾崎先生の「S先生のこと」のS先生が、須山先生のことが書かれていると知った時にもこの本も読んではいけないと勝手に思い、これまで逃げて逃げてきました。
須山先生が船に乗っていた時、ドストエフスキー全集を持ち込んでいたと書かれていましたが、10代の時に、ドストエフスキーの作品を数冊読んだ時も、ボードレールの詩を読んだ時も、フォークナーの「響きと怒り」を読んだ時にも同じ感想を抱いたものでした。
読んだら苦しくなるという存在の本があると私は思ってきました。現在58歳ですが、もうそろそろ自分の死を本気になって考えなければならない時に、後悔が残らないように、やり残したことはしなければ死んでも後悔が残るだけだと思うようになってきました。逃げている自分のことを若き時代から今に至るまで振り返る機会が最近増えてきたのです。研究の道に進むことは出来なかったのですが、ずっと私にはトラウマのように憑かれて逃げて避け続けていることがありました。
中原中也は「さらば東京、おおわが青春!」という言葉で東京を去りますが、10年以上過ごした東京時代、20代からすでに40年ほど経過している現実を振り返ると、この40年間無駄に生き延びてきただけではないだろうかとさえ思うようになりました。
明治大学の大学院には2度受験し、入学することは出来ませんでした。大学卒業後、1年間のアルバイトをやりながら勉強しましたが、当時の試験は、英語と文学史(語学)でしたので毎日英語をコツコツ読んでいたものでした。アメリカ文学史はほぼ満点。しかし英語がこれではねえ、とわざと私の前に中央に座られ進行役の亀山先生が、私の英語の答案を、見えるように出してくれたのです。そこには56点と書かれた私の答案があり、6割も取れなかったのか、と今までの努力もかなわなかったと肩を落としたものです。右に座っておられた須山先生は何も言われることもなく、表情も変えることはなかったと思います。待合室に返ると、56点だった、駄目だったよ、と私より一つ学年が上の先輩に伝えました。先輩はびっくりして、私は57点よ、と慰めるための嘘かもしれませんが、それを聞き、もしかしたらという気持ちになりましたが、結果は、その先輩は合格、私は不合格で他の大学院に行くしかありませんでした。1点でしかも総合点では私の方が上ではないのか、なぜ須山先生は引き上げてくれないのかと自分のふがいなさを他者のせいにしている自分がいました。
両親はまだその時は生きていましたが、浪人は1年までと約束していたので、これ以上の浪人はすることが出来ずに、大学を変わってもやることは同じだなどと下手な言い訳をして、大学を変わることにしました。大学が変わると雰囲気も教授のタイプも全く異なり、これまで通り、教授の訳や解釈に異論を述べたりしていたので、浮いた存在になっていたと思います。修士論文のフォークナー論も一蹴され、かろうじて修士の学位は取ることは出来た後悔だらけの2年間でした。
やはり明治に何としても残るべきだったと後悔しましたが、もともと私には英語を読み進める才能はないのではとなかなか認めることは当時できなかったのです。尾崎先生が、慶應の修士から博士課程に進まれる過程で、大橋教授がいなくなった慶應から明治の博士課程の受験を須山先生に相談するくだりで、須山先生が言われた、就職する時に役にたつと返答された理由がよく分かります。私の英語力のなさはこれから明治大学にたとえ入ったとしても大したことはないと須山先生は考えておられたとつくづく感じました。
それから更に大学を変わり、菅泰男先生が東京に来られると知り、シェイクスピアや英米演劇に専攻を変えて3年の博士課程後も2年間、菅先生から私の弱点を全て見抜かれ英語力もかなり上がったような気がしていました。ただ大学には職はなく、地元に帰り高校の県立高校の教諭として勤めることになりました。
菅先生は日本に初めてアメリカ文学を紹介した教授で、シェイクスピア研究や古今東西の演劇に博識が深く貴重なる5年間でした。メルヴィルが「白鯨」を書いた時、メルヴィルは「リア王」に影響を受けているのでそれを論文にしなさいと言われましたが、その力は私にはなくこれまでその論文にチャレンジしようと思ったこともありませんでした。ここでぐるりと時代が元に帰るような気がしていました。須山先生の卒論が「白鯨」だということは先生から聞いた記憶があるのですが、あの岩波文庫の阿部知二訳の改訂版の出版を考えていたことを尾崎先生の本を読み、更に何かの運命的なものを感じてしまった次第です。
尾崎先生がアメリカに研究のために行かれたくだりで、須山先生は、尾崎先生への返信の中で、ハーヴァード大学の中に流れている川のことを取り上げておられます。クエンティンが死んだあの橋だなと書かれており、須山先生の中には、「響きと怒り」あるいは「アブサロム、アブサロム」は、消えずに残っていたんだとうれしくなる半面、クエンティンが取りつかれたものに共感していると同時に、その思いを払拭することのできない須山先生のお気持ちをも感じることが出来ました。
くしくも、須山先生、須山先生の1番弟子、鈴木益男先生、そして菅泰男先生と全てS先生になってしまうのはただの偶然ではないような気がします。鈴木益男先生は当時、専任講師でフォークナーを意欲的に読んでおられましたが、40歳という若さでご病気のため亡くなってしまわれていたことを、後知りました。
大学3年か4年の時に「腰に帯して男らしくせよ」を出版された須山先生は非常にうれしそうな顔をしておられたと思います。買ってくれた生徒にはただでサイン入りの本をプレゼントしたいなどと言われたのを思い出します。私のサイン入りの本は度重なる転勤のせいでなくなってしまい、また買いなおした本が本棚に今も並んでいます。
須山先生のテストのことも書かれていないので申し上げておきます。前期と後期とペーパー試験があるのですが、訳が数題と最後に必ず間違い探しの問題が出題されていました。B4判一杯に英語が書かれ、1か所だけ文法・語法上間違いがあるといったテストでした。
訳は前もって熟読していれば難しくはないのですが、この間違い探しの問題は出来ずに自分の英語力のなさを感じてしまいました。
授業の様子は、慶應と同じように進まれていたようですが、時々発せられる、この段落(ページ)に質問はないか?もしあったら言いなさい。と慶應でも言われていたのだなあと思いましたが、明治ではその後こんな言葉が須山先生から放たれます。もし質問して答えられない者はくそみそ、足腰立たないくらいに罵倒してやるからな。本当にないのか?本当に答えられないとくそみそ罵倒されましたが、それは明治バージョンで私には優しい基本的な質問だったと思います。私は当てられてそれに答えることが出来るのはステータスだとまで感じるようになっていました。いや、周りの生徒はみな須山先生の授業には真剣に取り組んでいる生徒が多かったのではないかと思います。飲み会では、オコナーの短編の解釈を巡って議論したものです。
It is ……that の強調構文を訳すように言われた私たちは、みな簡単だと思い that の後ろから返り読みをした訳をしていましたが、その時の須山先生は激しい口調で叱咤されたのも覚えています。挟まれた所から訳しなさい、バカの一つ覚えのように、みな後ろから返り読みをするは間違いに等しい、と言われたのを思い出します。英語の語順で訳すことは、尾崎先生の本の中にもエピソードが紹介されており、高校生にも私は教えたものです。B先生の誤訳を指摘する本のことが書かれていますが、あれは上智の別府先生のことだと思いました。飛田先生の本にオコナーの須山先生の誤訳のことも書かれていましたが、私はどの箇所か気になるばかりです。飛田先生の誤訳の本は持っているのですが、まさか須山先生が登場している何て思いもしませんでした。
ながながと書いてきました。
先生にお伺いしたいことがあったのですが、その答えは再読してみて分かったような気がしています。
須山先生が若くして奥様を亡くし、息子さんを高速道路の交通事故で亡くされたということは、生徒たちはみな知っていました。「神の残した黒い穴」は当時既に出版されており、私はあの神保町の古本屋街で見つけて読んでいました。須山先生が抱えておられるものを想像することは難しいことではありませんでした。鈴木益男先生から須山先生は小説家で新人賞も取られていることも聞き知ってはいました。と言っても須山先生の書かれる内容は恐ろしいに違いないとも同時に思うようになりました。
私は「S先生のこと」を読み通すことが出来ました。あまりの緻密な内容に驚かされるばかりです。しかし、私はまだ「墨染に咲け」は手元にありながらまだ読んではいないのですが、この手紙を尾崎先生に向けて書くことが出来るのならば、読める気がしている所です。
「墨染に咲け」の書評を読んだ時からこの本は読んではいけないと直感的に感じたと書きましたが、その書評にはこんなことが書かれていたからです。英語青年だったか何かは覚えていません。またその書評を書いた偉い方が誰だったかも覚えていません。しかし、この言葉は忘れることは出来ない言葉でした。
「この本は、もはや小説の呈をなしていない。」
この言葉は、その書評の文脈から考えてみても、酷評しているように私は理解しました。しかし同時に、芥川龍之介の「歯車」や太宰の小説が頭に浮かび、また、フォークナーの一連の小説のことを思い起こし、書かれている内容は壮絶な須山先生を悩ませた記憶の束に違いない、読んでは私の方がヤラレテしまう、などと勝手に思い読まないことにしたのです。前に封印という言葉を使いましたが、文字通りの封印です。しかしその封印は尾崎先生の「S先生のこと」を読み、解かれようとしているのが分かります。
なぜ、須山先生は、再婚され、お嬢さんもおられるのに、「墨染に咲け」という本を書かなければならなかったのか私には理解することは出来なかったのです。須山先生自身もそのことは思われていたのは尾崎先生の本を読んで理解とまではいきませんが、読んでみなければ私自身先に進むことは出来ないという気になりました。
「S先生のこと」を須山先生の身内以外の、1生徒が果たして書いていいものかとも思いましたが、尾崎先生しか書くことは許されることではなかったと思います。
再婚された奥様のこと、またお嬢様のことが本の中で故意にとも思われるほど、取り上げられていませんが、その理由も分かったような気がします。それは尾崎先生のやさしさだと感じた次第です。
1冊の本を読むのに、何年も費やしてきましたが、本を読む勇気を与えてくださった尾崎先生に一言だけお礼の言葉をお伝えしようと思い、感謝のお手紙を書いた次第です。
尾崎先生におかれましては、ますますのご活躍とご健康を祈念致して筆を(キーボードですが)置かせて頂きます。
敬具
1921年 12月
竹 慎一郎
S先生のこと
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