ある小さな死。日常における自然の摂理

A Small Death

最近、家の玄関の前に鳥のフンが多くなっているのには気づいていた。車のフロントガラスに大きな鳥のフンがあるのはいつものことであるが、鳥のフンを見つける度に掃除するのは厄介なことだった。

日本では、スズメはよく見かける。その小さな鳴き声も日常ありふれたものに過ぎない。鳩も時々見かけるが、東京の頃、公園のベンチに座ると沢山の鳩が集まって餌をねだる姿はよく見かけたものだが、九州の田舎ではそう鳩の姿を見かけることは少なくなった。

東京時代、公園のベンチに座り、スナック菓子をあげると喜んで食べてくれる。中には、食パンを1斤鳩に餌をやっている人もいた。都会の鳩の足を良くみたことはないかもしれないが私は、鳩の大部分が足の指がないのに気づいていた。足の指が数本なくともたくましく生きる姿を感じたものだ。

カラスもここ九州の田舎ではあまり見かけることはない。しかし、ごみ置き場に群がるカラスの姿は度々見かけた。ごみが散乱するので迷惑なことではあるが、カラスはそうやって餌にありついていて生きている。

昨日、ヤクルトと配達の方が、玄関の上に鳥の死骸がぶら下がっていると聞いて驚いたが、玄関の上に白骨化した鳥がぶら下がっているのに気づいた。後で、箒か何かで取らなければならないと思ったがその時にはそれ以外のことに、私は気づくことはなかった。

午後、外出しようとした時、一羽の小さなスズメが玄関の前に、うずくまっているのを見つけた。まだ小さな雛だったが、もう大人のスズメに近いと思われたが、飛ぶことはできずに玄関の前にうずくまっている。生きているが、飛ぶことはできないみたいだった。私は手でそのスズメを拾ってハムスター用の小さなゲージに入れようと思った。スズメは私の手の中で大人しく暴れることもなく包まれた。

その時、気づいた。玄関の上の隙間に、2匹のスズメが大きな口を開けて親鳥からの餌を待っていたのだ。上の電線を見上げると2羽の大人の恐らく親スズメがこちらを見ているのが分かった。

このスズメはどうやら巣から落ちてしまったらしい。2メートルくらいの高さからまだ柔らかい体の雛は何かの原因で落ちてしまったと思った。まだ生きている。ハムスターのゲージに入れても大人しくしている。口は開けないのだが、口にハムスタ用の餌を砕いて水に溶かして、小さなスプーンでスズメの口に近づけてみた。そのスズメは口を大きく開けることはしなかったが、口の周りに付いた餌をなめることはできた。少しは水分を取らなければと思い、何度も口に少しづつ餌を運んだ。少しはなめてくれて安心した。

眠るようにおとなしくなったが、まだ息をしているのが分かった。眠っているのだと感じた。

1時間位して様子を見に行ったが、その時のスズメは体を横に持たれて、動くことはなかった。さっきまでは生きていたのに。今は頭を横にして動かない。

何もしてあげることはできなかった。小さな命を救うことはできなかかった。

夜、遅く、近くの公園にスコップを持っていきそのスズメを埋めてあげた。私の家の庭には土がないため、公園の大きな木の下に小さな穴を掘って埋めた。

死は生き物である限り平等にやってくる。大勢から死を悼んでなくなる人もいるが、誰からも看取られず逝く人もいるだろう。ましてや、この日常の自然の中で生きているスズメの遺骸は誰も見たことはないだろうと思う。

こうして書いている間にも鳥の鳴き声が聞こえてくる。餌はあるだろうか?あの玄関の隙間にいる2羽の小雀は無事飛び立てるだろうか?

この平和に思える日常の中で、生きている動物たちがいる。人間が養っている訳ではない。自然に生きる鳥たちの環境を破壊しているのは人間に他ならない。玄関の上の隙間に巣を作れてよかったのだろうか。ここならカラスから狙われることも、雨風にさらされることもないだろうと思うのだが。

人間は自然を、謙虚につつましく、守る義務があると思う。

たかが、1匹のスズメの死だけでは済まされないことだと思う。

私の手のひらのの中で大人しくうずくまっていたスズメの姿はもういない。

A Small Death

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竹 慎一郎

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