今日は4月4日。私の誕生日のもちろん翌日。5日はその翌日。この3,4,5日と連続した誕生日には忘れられない思いがある。
大学1年の時、大学登校初日。クラスでのオリエンテーションがあり、私の隣に座ったのが鈴木君だった。鈴木君は東京の大田区の出身で私は九州だったので、東京の人と話すのは大学で鈴木君が一番最初だったと思う。不思議なもので、この偶然隣に座ったのが縁で4年間仲の良い友達になった。鈴木君はお父さんを亡くし、高校時代からアルバイト代で予備校の授業料を稼ぎ非常に苦労していたが、性格はおおらかで明るく嘘がつけない人だった。アルバイトをしたことのない私を良い時給のアルバイトを紹介してもらったり、東京の都立高校のことを聞き、九州とは大違いだと思い知らされたりと色々話してくれたものである。
鈴木君は、九州出身の同じクラスの女の子に思いを寄せていることまで話し、私は何とか2人の仲が上手くいくように思ったものだった。大学4年生の時、大勢の学生たちが映っている写真を見せてもらったことがある。「この中で1番可愛い子は誰だと思う。」私は迷ったが、2名の女の子を指差した。鈴木君は嬉しそうだった。そのうちの一人と付き合っていると言ったのだ。九州の女の子は諦めたと言った。幸せそうに思えてうらやましい思いさえしたものだ。鈴木君は、大学卒業後は1部上場のSEの会社に入り前途洋々に見えた。私は就職活動もほとんどしなく大学院を目指していたが、「親父が生きていればなあ。」と時々つぶやく声は今でもはっきりと覚えている。卒業後、1度だけ会った。新橋の学生がいかないようなお店でお酒を飲んだのを覚えている。就職して順調にいっていると感じた。もう、結婚も近いのではと冷やかしたが、鈴木君はまんざらでもないかに思えた。
私と言えば、大学院の試験に落ちて、アルバイト生活だったのであるが、本心鈴木君は今まで苦労してきたことをばねにして成功してもらいたいと思っていた。
その時、私はそんな身でありながら、大学生の頃から思いを寄せていた女の子と電話したり時々あったりしていた。付き合っていたわけではなかった。一方的な私の思いに付き合ってくれただけだった。東北の出身で、彼女も就職はせずにアルバイト生活を送っていた。卒業して1年後の4月3日、彼女に電話して会えないかと誘った。彼女は久しぶりの電話に驚いたような感じだったが、4日の日、確か日曜日の夕方だったと思う。4月なのに寒い日だった。4日は彼女の誕生日だった。私は誕生日のプレゼントを渡したがもうこれ以上は会えないと言われ完全に降られたのだ。帰りのバスの中では涙が止まらなかったが、こればかりは致し方ない。もう諦めなければと思った。汚いアパートに戻り、鈴木君に電話した。鈴木君は元気そうだったが、自分のことは話さず私の話を黙って聞いてくれた。明日、誕生日だよね、頑張ってね。と言うのが精一杯だった。バカな私はそれから、4月4日に彼女に電話したものだった。もう諦めてはいたが、元気でいればそれだけでいいと思っていた。その時の彼女の戸惑っている様子は目に浮かんだものだった。2,3年は続いたと思う。年に1回の電話での誕生日おめでとうの言葉。
私も研究が忙しくなり、ある年から電話するのを意識的に辞めた。私は相変わらず彼女も好きな人もいなかったが、英語の勉強ができるだけで幸せだった。ちょうど30歳の私の誕生日。午前3時。電話が鳴った。一瞬彼女の顔が浮かんだ。電話に出たが無言で何も聞こえてこない。「もしもし」を繰り返すと電話は切れた。胸騒ぎがした私は4日久しぶりに彼女に電話しようと思った。「電話番号は使われていません」と繰り返す機械音に昨日の電話は最後の別れの挨拶のような気がした。田舎に帰ったのだろうかと勝手に思ったものだった。全ては私の勝手な思い込み、推察に過ぎないのであるが、あの電話は彼女からだと思う。5日、鈴木君に、誕生日おめでとうの電話をしようとした。鈴木君とも久しく会っていなかった。鈴木君の電話番号も使われていないと知った。何故だろう。鈴木君の家は実家だったのでお母さんと暮らしていたが、もしかしたら結婚して住まいを変わったのかもしれないと思った。
4月3日、4日、5日の連続した誕生日の友達はもういなくなった。
大学生の頃は遠い昔のこととなったが、私は自分の誕生日が来る度に、2人の安全と健康だけを祈るばかりである。
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