津軽三味線の魂、高橋竹山が最後に伝えたかったこと──死の直前インタビューが明かす「本物の音」の意味

高橋竹山 三味線
目次

はじめに:1998年2月、一つの時代が終わった

1998年2月、津軽三味線の巨星・高橋竹山(たかはし ちくざん)がこの世を去った。享年84歳。その死は単なる一人の演奏家の逝去ではなく、津軽という土地が生み出した「生きる音楽」の証人を失った瞬間でもあった。

竹山の音楽を一度でも聴いたことがある人なら分かるだろう。あの張り裂けるような三味線の音は、単なる民族音楽の枠をはるかに超え、人間の業(ごう)そのものを鳴らしているような凄みがあった。晩年のドキュメンタリー「最後の舞台 〜津軽三味線・高橋竹山の挑戦〜」は、死の直前のインタビューと関係者の証言をもとに、竹山が最後まで伝えようとしたメッセージを追った貴重な記録である。

本記事では、その内容を軸に、高橋竹山の生涯と思想、そして彼が津軽の風雪とともに刻み込んだ「音の遺言」を読み解いていく。


高橋竹山とは何者か──貧困と失明が生んだ「旅芸人」の原点

高橋竹山は1910年(明治43年)、青森県東津軽郡蟹田町に生まれた。幼少期に患った疱瘡(天然痘)の影響で視力をほぼ失い、盲目の旅芸人として津軽の村々を渡り歩く「門付け」の生活を余儀なくされた。

門付けとは、家々の門前に立って三味線を弾き、わずかな銭や食べ物をもらいながら生き延びる生活である。それは施しを受ける屈辱と隣り合わせの日々であり、津軽の厳冬をひとりで越えていく過酷な旅だった。しかし同時に、それこそが竹山の音楽の根っこを形成した。

<u>彼の三味線は「芸術」として学ばれたものではなく、「生きるための手段」として体に染み込んだものだった。</u>この違いは決定的である。演奏技術の巧拙以前に、音そのものが持つ切迫感や重量感が、竹山の演奏には宿っていた。

関係者の証言によれば、竹山はよく「俺の三味線は津軽の寒さと腹の減り具合で作られた」と語っていたという。これは比喩ではなく、文字通りの事実だった。


津軽の風雪と重なる人生──時代の苦難が「音」になるまで

竹山が生きた時代は、津軽にとっても激動の歴史と重なる。昭和初期の大凶作、太平洋戦争、戦後の貧困と復興……。津軽地方は日本の近代化の恩恵を最後に受けた地域の一つであり、その分だけ、民衆の苦しみが深く長く続いた。

竹山はその苦しみの中を、三味線一丁とともに生き抜いた。村から村へ、雪道を歩き、凍えながら弦を爪弾いた。そうした体験が、彼の音楽に唯一無二の「リアリティ」を与えていた。

ドキュメンタリーの中で、ある古くからの知人はこう証言している。「竹山の弾く三味線は、うまいとかへたとか、そういう次元じゃなかった。何か、聴いていると胸が痛くなる音だった。津軽の冬みたいな音だった」と。

<u>「津軽の冬みたいな音」</u>──この言葉は、どんな音楽評論の言葉よりも竹山の本質を突いていると思う。技術で作られた音ではなく、生きることで削り出された音。それが高橋竹山の三味線だった。


晩年の「挑戦」──なぜ80代の竹山は舞台に立ち続けたのか

竹山が広く世に知られるようになったのは、1960年代以降のことである。それまで津軽の片隅で生きてきた「盲目の旅芸人」が、突如として東京の舞台に上がり、聴衆を驚かせた。

しかし本当の意味での「挑戦」は、晩年になってからだった。80歳を超えても竹山は舞台に立ち続けた。指の自由が利かなくなっても、かつての冴えが失われても、それでも弾くことをやめなかった。

「なぜ弾くのか」という問いに対して、死の直前のインタビューで竹山はこう答えている。**「弾かなければ、俺がここにいた証拠がなくなる」**と。

この言葉は重い。芸術的な自己表現という意味合いを超え、存在証明としての音楽という次元の話である。貧しく、見えず、社会の外縁を生き続けた人間が、三味線を弾くことによってのみ「自分がここにいた」という事実を刻むことができた。その必死さが、80代の老いた身体を舞台へと駆り立て続けたのだ。

ドキュメンタリーのスタッフによれば、晩年の竹山は舞台袖での準備に長い時間がかかるようになっていたという。震える手で撥(ばち)を握り、深呼吸を繰り返す。そして舞台に出た瞬間、その顔つきが変わった。「あの瞬間の竹山さんは、何か別のものが乗り移ったように見えた」と証言するスタッフもいた。


死の直前インタビューが語る「本物の音」とは何か

竹山が最後のインタビューで繰り返し語ったテーマがある。それは**「本物の音とは何か」**という問いだった。

津軽三味線は、竹山が世に広めて以降、急速に「芸能」として普及した。コンクールが生まれ、音楽学校でカリキュラムとして教えられるようになり、若い奏者が次々と登場した。技術的には竹山を超える演奏者も現れた。

しかし竹山はそのことを手放しには喜ばなかった。インタビューの中で、彼はこんな言葉を残している。「うまくなった子はたくさんいる。でも、<u>腹が減ったことのない人間の三味線は、どこかきれいすぎる</u>」と。

これは若い世代への批判ではない。竹山自身が誰よりもよく理解していたことを、正直に語っているのだ。苦しみや飢えや寒さが「音」に宿るとき、それは聴く者の魂を揺さぶる力を持つ。逆に言えば、その体験なしに技術だけを磨いた音楽には、どこかに「空白」があるということだ。

この発言は、現代の音楽教育や芸術の在り方に対する深い問いかけでもある。「生活と芸術は切り離せない」という考え方は、竹山の生涯そのものが証明している。


高橋竹山が後世に遺したもの──「津軽三味線」というジャンルを超えて

高橋竹山が三味線界に与えた影響は計り知れない。彼以前、津軽三味線は「民間芸能」として記録される以前に消えていくかもしれなかった。竹山がその音楽を舞台の上に持ち込み、録音し、全国に広めたことで、一つの音楽的遺産が後世に引き継がれることになった。

しかし、より大切な遺産は音楽そのものより、「生き方」にあるかもしれない。

<u>どんな状況に置かれても、自分の表現を手放さないこと。</u>貧しくても、目が見えなくても、年老いても、弾き続けること。そのことの意味を、竹山は言葉ではなく存在をもって示した。

ドキュメンタリーのラストシーン、竹山が最後の舞台で三味線を爪弾く姿は、多くの視聴者の胸に深く刻まれたという。震える指、しかし揺るぎない表情。そこには人間が「生きること」と「表現すること」が完全に一致した瞬間が捉えられていた。


おわりに:竹山の音が問いかけるもの

高橋竹山が亡くなって四半世紀以上が経つ。しかし彼が残した問いは、今も色あせない。

「本物の音とは何か」「表現とは何か」「生きることと芸術はどこでつながるのか」──これらは津軽三味線という枠を超え、あらゆる表現活動に関わる普遍的な問いである。

便利になり、豊かになり、苦労しなくても技術が身につく時代。だからこそ、高橋竹山という人間が自らの貧困と孤独と寒さを三味線の音に変えた生涯は、私たちに根本的な何かを問い直させる。

ドキュメンタリー「最後の舞台 〜津軽三味線・高橋竹山の挑戦〜」を未見の方には、ぜひ一度観ることをおすすめしたい。そこに映っている老人の姿は、ただの偉大な芸人の記録ではなく、人間が「生きること」の意味を問い続けた、ひとつの答えである。


参考:ドキュメンタリー「最後の舞台 〜津軽三味線・高橋竹山の挑戦〜」(1998年)

youtube
高橋竹山 三味線

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

竹 慎一郎

コメント

コメントする

目次