柳原白蓮とはどんな人物?大正三美人の歌人が生きた波乱の生涯と「白蓮事件」の真実

柳原白蓮

明治・大正・昭和という激動の三時代を生き抜いた歌人・柳原白蓮(やなぎわら びゃくれん)。彼女は美貌と才能に恵まれながらも、華族という枠組みの中で翻弄され続けた女性でした。その人生は、単なる「歌人の生涯」にとどまらず、近代日本における女性の自由・愛・社会的身分という普遍的なテーマを体現するものでした。

1967年2月22日、彼女は81年の長い生涯を閉じました。今日はその命日にあたります。改めて、柳原白蓮という人物の生涯を深く掘り下げてみましょう。


目次

柳原白蓮のプロフィール|大正三美人の一人に数えられた歌人

項目内容
本名宮崎燁子(やすこ)
生年月日1885年(明治18年)10月15日
没年月日1967年(昭和42年)2月22日
享年81歳
出身東京府(現・東京都)
活動歌人・随筆家
与謝野晶子ら

柳原白蓮の本名は宮崎燁子(やすこ)。旧姓は柳原といい、明治天皇の従妹という華族の血筋を持って生まれました。「白蓮」という雅号は、その清廉な歌風と白い蓮の花のような美しさに由来するとも言われています。

**「大正三美人」**とは、大正時代に絶世の美女として広く知られた三人の女性を指す言葉です。白蓮はその一人に数えられ、残る二人は九条武子(くじょうたけこ)と江木欣々(えぎきんきん)とされています。その容姿の美しさだけでなく、和歌の才能も突出していたことから、当時の文化人・知識人の間でも高く評価されていました。


生い立ちと不遇な幼少期|貴族の娘として生まれながらも

白蓮は1885年(明治18年)、柳原前光伯爵の庶子として東京に生まれました。庶子(しょし)、すなわち妾腹の子として生を受けた白蓮は、幼い頃から華族社会の中で複雑な立場に置かれていました。

実母と引き離され、親戚の家を転々とするという不安定な幼少期を送った白蓮。そうした境遇の中で彼女が心のよりどころとしたのが、和歌の世界でした。言葉に感情を託し、歌を詠むことで自分の内なる世界を表現していった白蓮の原点は、この孤独な少女時代にあったと言えるでしょう。


最初の結婚と歌の道への目覚め

1900年(明治33年)、白蓮は15歳という若さで最初の結婚をします。しかしこの結婚は不幸なもので、間もなく離婚。この経験は若き白蓮の心に深い傷を残しましたが、同時に歌人としての感受性をさらに鋭く研ぎ澄ます契機にもなりました。

歌人・与謝野晶子に師事した白蓮は、その豊かな感性と洗練された表現力で頭角を現していきます。与謝野晶子もまた「みだれ髪」で知られる、情熱的な愛と女性の自立を詠んだ歌人でした。白蓮が彼女に師事したことは、後の生き方にも大きな影響を与えたと考えられています。


九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門との結婚|身分と財力の間で

1910年(明治43年)、白蓮は再婚します。相手は福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)。莫大な財産を持つ実業家でした。

この結婚は白蓮の叔父・柳原義光らの意向によって進められたものでした。華族の血筋を持つ美貌の歌人と、新興財閥の成り上がり実業家という組み合わせは、当時の社会的な視点から見ても異例のものでした。伝右衛門にとっては名誉ある家柄との縁談であり、白蓮の家族にとっては経済的な安定を得る手段でもありました。

しかし白蓮にとって、この結婚生活は精神的な苦痛の連続でした。

  • 文化的・精神的な価値観のズレ:書や歌を愛する白蓮と、実業の世界に生きる伝右衛門。二人の間には埋めようのない断絶がありました。
  • 年齢差(約25歳):白蓮は当時25歳、伝右衛門は50歳でした。
  • 自由の制限:豪邸に住みながらも、白蓮の精神は籠の中の鳥のようでした。

それでも白蓮はこの時期、歌集『踏絵』(1915年)などを発表し、歌人としての地位を確立していきました。苦しみが深ければ深いほど、その歌には真実の感情が宿っていったのです。


白蓮事件(1921年)|大正を震撼させたスキャンダルの真相

事件の発端

1921年(大正10年)10月、**「白蓮事件」**が日本中を驚かせました。これは近代日本史における最も有名な「駆け落ち」事件の一つとして、今なお語り継がれています。

事件の主役となったのは、白蓮と宮崎龍介(みやざきりゅうすけ)。龍介は社会主義運動家・宮崎滔天の息子で、東京帝国大学出身のインテリ青年でした。二人は白蓮が東京に出る機会に知り合い、深い精神的・肉体的な愛情で結ばれていきました。

衝撃の絶縁状

1921年10月、白蓮は伊藤伝右衛門のもとを去り、龍介とともに東京へ向かいました。そして翌日の新聞紙上に、伝右衛門への公開絶縁状が掲載されたのです。

この絶縁状の内容は、当時としては異例の率直さで、白蓮の苦しみと愛の告白が綴られていました。**「あなたとの結婚生活は、私の魂を殺すものでした」**というその言葉は、全国の女性たちの心を打ちました。

「私はあなたのもとを去ります。それは私が生きるために、どうしても必要なことだからです。」 (絶縁状の要旨より)

社会への衝撃と反響

この事件は**「大正の恋愛革命」**とも呼ばれ、社会に大きな波紋を投げかけました。

賛否両論の渦の中、とりわけ多くの女性たちが白蓮の勇気ある行動に喝采を送りました。「愛のない結婚からの解放」「自分の意志で人生を選ぶ権利」——それは当時の女性たちにとって、まだ夢のような話だったからです。一方で「不貞」「華族の恥」と非難する声も少なくありませんでした。


宮崎龍介との新生活|愛と試練の後半生

白蓮と龍介はその後正式に結婚し、新しい生活を築いていきます。龍介との間には息子・燐太郎(りんたろう)が生まれました。

しかし、試練はそれだけでは終わりませんでした。

太平洋戦争が勃発し、一人息子の燐太郎が出征。そして1945年、燐太郎は戦地で帰らぬ人となります。我が子の死という、どんな言葉でも表せない深い悲しみ。白蓮はその慟哭を和歌に託して詠みました。その歌には、母としての愛と喪失の痛みが、研ぎ澄まされた言葉で刻まれています。

戦後も白蓮は歌を詠み続け、平和運動・女性の権利向上への関心を持ちながら晩年を過ごしました。


柳原白蓮の代表歌|その歌に込められた魂

白蓮の和歌の特徴は、華麗でありながら哀愁を帯びた抒情性にあります。師・与謝野晶子の影響を受けつつも、白蓮独自の繊細さと気品が漂います。

代表的な歌集には以下のものがあります。

  • 『踏絵』(1915年) ——炭鉱王の妻として過ごした時期に詠まれた歌集。束縛と苦悩の中から生まれた魂の叫び。
  • 『幻の華』 ——白蓮事件前後の激動期を詠んだ作品群。
  • 『白蓮歌集』 ——生涯にわたる作品をまとめた集大成。

彼女の歌は単なる技巧の産物ではなく、実体験に根ざした魂の表現であったからこそ、時代を超えて読者の心を揺さぶり続けているのです。


柳原白蓮が現代に伝えるもの

1967年2月22日、柳原白蓮は81歳でその生涯を終えました。

明治・大正・昭和という激動の時代を生きた白蓮の人生から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

自分の人生を自分で選ぶ勇気。それが白蓮の生き様が現代に伝える最も力強いメッセージではないでしょうか。

華族という特権的な生まれでありながら、その枠組みに縛られ続けた白蓮は、大きなリスクと社会的非難を承知の上で、愛と自由を選びました。その選択は当時の常識を覆すものでしたが、彼女は歌という形で自分の内なる声を世界に届け続けました。

女性が自分の声を持つことの大切さ、そして言葉が人の魂を解放する力を持つということ——柳原白蓮の生涯は、時代を超えてその真実を私たちに語りかけています。


まとめ|柳原白蓮の生涯年表

出来事
1885年東京に生まれる(柳原前光伯爵の庶子)
1900年最初の結婚・離婚
1910年炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚、福岡へ
1915年歌集『踏絵』刊行
1921年白蓮事件。宮崎龍介と出奔、公開絶縁状を発表
1923年宮崎龍介と正式結婚
1945年息子・燐太郎が戦死
1967年2月22日、81歳で逝去

柳原白蓮——その名前は、これからも「自由を求めた女性の象徴」として、日本の近代史に輝き続けることでしょう。


参考:柳原白蓮関連資料・歌集・近代日本史資料

柳原白蓮

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

竹 慎一郎

コメント

コメントする

目次