この文章は実は2月25日に完成していたのであるが、今日3月11日に書き直すことになった。
2月25日(金曜日)、宮崎はいい天気であった。週末にかけてはさらに春めいた陽気になるとの予報であった。
君は京都にいて、京都大学の2次試験中、試験は2日にわたって行われた。京都は寒いだろうか、そんなことをぼんやりと思いながら君の合格を、その時の私は合格発表の前なのに、何故かもう合格を確信していたのであった。
しかし、まさかの事態が起こってしまった。
京都がダメだった。
君の実力を持ってしても京都大学の門は開かれることはなかった。
しかし、後期の九大に君の挑戦は続き、3月21日の午前11時の発表を持って、九州大学、工学部の合格がネットにあり、今の私は内心ほっとしている所である。
前期の発表から後期の試験までの1週間ほどは、余程の精神力が必要だと思われる。
それを見事に乗り切り合格することが出来た君は、一歩前に踏み出すことが出来たのではないかと思う。
私の父親は、大学は恵まれていたとは決して思わないのだけれでも、仕事上の努力は実り、その努力に相応する評価を受けた生涯だったと思う。君もこれからの福岡での生活に希望で満ち溢れていると思う。
ただ、どうしても伝えなければならないメッセージがある。
少しばかり長くなるかもしれない。読もうという気もないかもしれないが辛抱して読んでもらいたい。
私は文学部の英文科だったが、別に英語が好きで、英語が学びたくて入った訳ではない。
あの時は、生きるのに精一杯で文学の道が私を救ってくれる唯一の道だと考えていた。
国文でも仏文でも構わなかった。英語は食べていく上で役に立つだろうと親や先生に言われたからである。
大学では私よりも実力が上の者が多く、追いつこうと思いそれなりに英語に取り組んだ。
そのうち、アメリカ文学に興味が出てきたのでアメリカ文学に救いを求めるようになった。
英語というよりも文学の方にひかれていったということだ。勿論、文学を読む上で英語力は必要になるのは当然のことであるが。
大学院に進み更に研究が出来ればと考えるようになった。何せそれが一番自分に合った好きな道に違いないと思ったからである。
しかし、研究の道は厳しく私の書いた論文は認められることはほぼなかったに等しい。
文学研究は何のためにあるのかと問われると、自分が生きるために必要だからとしか答えることは出来ずに、ある意味ではそれはもっともなことであるが、生と死が隣合わせの研究は相当な覚悟が必要だと感じた。
印象深い3人の先生をここで紹介したい。
明治大学のアメリカ文学は、当時、須山静夫教授がおられてアメリカ文学の研究者として有名な先生であった。
須山先生は、背も高く肉体労働者者みたいな風貌だったが、授業は厳しかった。いちいち訳を付けることはせずに、このページで分からない所があったら質問しなさいと言われ、生徒が何も言わなければいつの間にか数十ページも進んでいくようなアメリカの大学の授業のスタイルであった。
須山先生の父は東大での官僚、須山先生自身は、今の横浜国立大学の工学部にあたる所に進まれ、国のお役人の仕事をされていた。その時、国費でアメリカに留学され、後に結婚される奥様と知り合うことになる。須山先生はその仕事が嫌で耐えられなくなり、立派な職を辞し、明治大学に編入学されることになる。大学院も特待生扱いで給料をもらいながら研究に打ち込まれた。その頃、奥様とご結婚され、奥様は有名私大の助教授と夫の方が立場が低いのは致し方ないが、ご長男にも恵まれ、当初はお幸せな生活をおくっていたと思う。
しかし、そんな生活は長くは続かない。奥様が結婚後1年半で病気でお亡くなりなった。須山先生はその数年後再婚され、お嬢さんも生まれて幸せを再び手に入れたかのように見えたのだが、今度は、ご長男が高速道路で自足160キロで事故を起こして亡くなってしまわれた。
しかし、須山先生には、新しい奥様、お嬢さんもおられたので傍目には幸せなご家庭のように見えたのだが、須山先生はそれから50年を費やし、自分の人生とアメリカ文学の研究を重ね合わせ、書かれた論文や翻訳を読むとその生と死に取りつかれた壮絶な生き方だったと言わざるを得ない。
2人目の先生は、鈴木益男先生、当時明治大学の専任講師で歩くのもたどたどしく、何かのご病気だと私たち生徒は思っていた。非常に温厚でいつもニコニコされていて、須山先生の1番弟子だが須山先生とは全くタイプも性格も違っており、私たちは、親しみを込めて益男先生と呼んでいたのだが、須山先生の本の中に、益男先生の告辞が書かれておりそれを読んで驚愕してしまった。心臓に障害があり長くは生きられない身体であり、42歳という若さでお亡くなりになるのだが、私が在籍していた頃、授業が苦痛に思え、浴びるように酒を飲み、入院までされていたことを知った。見かけと実際の姿たとの違いには驚くばかりである。益男先生が授業中こんなことを言われたのを今でも覚えている。
「皆さんは、予習に数時間はかけていると思いますが、私は恐らく、その10倍はかけていると思います。」
翻訳もあるのにどうしてそんなに時間がかかるのかと不思議に思ったが、これが文学とのある種の戦いなのだと思うようになった。
最後に、菅泰男京都大学名誉教授。京都大学のシェイクスピアや演劇の大家である。私は、君が菅先生の後輩になるのを夢見ていた。その夢は実現しなかったのであるが、ここではあえて紹介したいと思う。
当時、菅先生は、2週間に1度、東京に来られて教鞭をとられていた。私が博士後期課程の頃だ。2対1というほとんど家庭教師のように英語の根幹から直された5年間であった。博士論文は文系では20代では取れないので書くことは出来なかったが、数本の論文は発表することができた。しかし、理系では20代で博士論文は通ることは覚えておいてください。
菅先生は、当時70代だったと思うが、授業自体は厳しく演劇の台詞の読みを間違えると、妥協せずに出来るまで何度もやったものである。
授業が終わると、東京駅まで見送りに行くのであるが、必ず、東京駅の地下の居酒屋に行き、お酒をご一緒させて頂いた。菅先生は、お酒を「般若湯」(はんにゃとう)だとよく言われた。僧家の隠語で「真理に至る智慧」という意味らしい。お酒も飲み方次第。須山先生も益男先生も菅先生もよく飲まれたと思う。
君も大学ではお酒を飲む機会があると思う。菅先生のように飲むのがいいと思う。
しかし、内の亡くなった父もだが、父は私が偉そうなことを言うと、私の顔に焼酎をかけ、取っ組みあいの喧嘩をしたものである。
君とも何度か言い争いになったことがあるが、それは言い訳に過ぎないのだけれども、まだ私が若いというわけである。
70を超えてからは、飲んで父と喧嘩することはなくなってしまった。
思えば父と一緒に酒を飲んで口喧嘩になったとしても、それはまだ父が元気な印だと亡くなって思うようになった。
ユージン・オニールの、Long days Journey into Night という劇の中で、こんなセリフがあったのを思い出す。
あなたはどうしてお酒ばかりお飲みになるの?
忘れたいのだよ。
何をそんなに忘れたいの?
続く台詞は今は書くのを止めようと思う。君もいつの日か分かる日が来ると思う。
3人の先生を簡単に紹介した。それは研究の道はいくらその道が好きでも困難を引き起こす場合があることを伝えたかったからである。
大学の4年間は、学部と言い、まだまだ専門の科目のスタートラインに立ったに過ぎない。
工学部は、一般的に言えば、修士課程は常識と言われる。勿論、君に院への道を強制しているのではない。
ただし、大学の4年後に就職の道も考えられると思うが、そのような道もあり得るということを覚えておいて欲しい。
それなら、医者になった方が早いと考えた。6年で国家試験を取ったら、莫大な収入と地位が確保出来るのではないかと。医者など簡単になれるはずなどないので、医者になった方がむしろ楽だと思った。研究の道は、1級建築士を取った後でも果てしもなく続いていくのではないかと私は考えたので勧めたという訳である。
そして、君は血を見たり、人の命に係わるのは嫌だと聞いたのが私には引っかかった。
医者にとっての血は物理的な存在であると同時に感情を持った人間の一部であることは疑うことは出来ないだろう。
ここがものづくりの工学部との相違点であると思うが、ものづくりの背後にはもちろん人間の存在があり、しかも6年ではまだまだ1人前だと言えないのではないかと考えたから、医者の方が言葉は変かもしれないが楽ではないかと思った次第である。
言いたいことは以上である。
君が選んだ道。勿論否定する気は毛頭ない。
君の合格に万感の敬意を払い、祝福の言葉としたい。
九州大学工学部、合格おめでとうございます。
君には洋々とした未来が待ち受けている。健康に気をつけ、勉強はさておき、高校生活で味わうことの出来なかったことにも挑戦してみてください。一見何も関係ないと思ったことが後、役に立つことが多々あるからです。
下のHamlet からの引用は、旅立つ息子へ父が放った言葉で、卒業アルバムに生徒から何か一言書いて欲しいと頼まれた時に、好んで書いた1文である。
to thine own self be true
Hamlet, 1, 3
父より
2022年3月21日
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