坂本龍馬も撮った幕末の天才写真家・上野彦馬|独学と信念が生んだ日本写真史の礎

上野彦馬
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はじめに――写真という「魔法」が日本に降り立った時代

19世紀半ば、西洋から持ち込まれた写真術は、当時の日本人にとって文字通り「魔法」のように映った。人の顔や景色が、そのまま紙の上に焼きつけられる。それまでの絵画や版画とはまったく異なる「リアル」の再現に、人々は驚嘆し、畏怖さえ感じたという。

そんな時代の最前線に立ち、独学で写真術を習得し、坂本龍馬や高杉晋作といった幕末の志士たちをカメラに収め、さらには日本初の従軍カメラマンとして戦場に赴いた人物がいる。長崎の写真館主・**上野彦馬(うえの ひこま)**である。

化学者としての顔、教育者としての顔、そして戦場に立つカメラマンとしての顔。いくつもの側面を持つこの人物の生涯をたどると、「新しい技術を自らの手でつかみ取る」という、現代にも通じる普遍的な姿勢が浮かび上がってくる。


上野彦馬とは何者か――長崎に生きた化学青年

上野彦馬は1838年(天保9年)、長崎に生まれた。父は蘭学者であり、幼い頃から西洋の学問に親しむ環境で育った。長崎という土地柄も大きかった。鎖国時代においても出島を通じて西洋文化が流入し続けたこの街は、当時の日本においてもっとも「外の空気」を吸える場所のひとつだった。

彦馬は化学を中心とした蘭学を修め、やがて写真術と出会う。1857年(安政4年)ごろのことである。当時、写真術はまだ西洋から伝わって間もない最新技術であり、日本にはほとんど専門家も教科書も存在しなかった。

それでも彦馬は怯まなかった。入手できる限りの洋書や化学書を読み込み、写真撮影に必要な薬品や器具の知識を、文字通り書物だけを頼りに習得していったのである。


書物だけを頼りに独学した写真術――その壮絶な試行錯誤

写真術の独学がいかに困難だったかは、当時の状況を想像すれば理解できる。現代のようにインターネットも動画チュートリアルもない。日本語の解説書すら存在しない中で、彦馬は化学式と格闘しながら、撮影に必要な薬品を自らの手で合成しようとした。

なかでも有名なのが、アンモニアの入手をめぐるエピソードである。

写真の現像や定着には特定の化学薬品が欠かせないが、当時の日本ではそれらを市場で購入することなどできなかった。そこで彦馬が取った方法が、「肉付きの牛骨を土に埋めて腐らせる」という、いかにも化学青年らしい発想の実験だった。骨が腐敗する過程でアンモニアが発生するという化学的知識を応用したのだ。

しかしその方法には重大な副作用があった。腐乱した骨から漂う強烈な悪臭が近隣に広がり、ついには奉行所に訴えられてしまったのである。現代に置き換えるなら、自宅の庭で異様な実験を繰り返す青年が通報されるようなものだろうか。

この逸話は笑い話のように語られることもあるが、その本質は笑えるものではない。必要な材料が手に入らないなら自分で作る。前例がなければ自分で切り開く。その姿勢は、新しい技術に挑む者のあるべき姿を体現している。

悪戦苦闘の末、彦馬は1862年(文久2年)、長崎の中島川のほとりに**「上野撮影局」**を開業する。日本における写真館の先駆けのひとつである。


坂本龍馬・高杉晋作――幕末の志士たちをカメラに収めた男

上野撮影局が開業した時代は、まさに日本が激動の渦中にあった時代と重なる。長崎は西洋との窓口であり、倒幕派の志士たちが行き交う政治的にも重要な土地だった。

その中で、彦馬のカメラは歴史的な瞬間を捉え続けた。

坂本龍馬が撮影されたのも上野撮影局においてであるとされており、現在も広く知られているあの龍馬の写真——懐に手を入れ、毅然と立つ姿——はまさにその象徴である。また高杉晋作をはじめとする幕末の志士たちも、この写真館で撮影されたと伝えられている。

写真が「顔を後世に残す」という役割を持ち始めたこの時代、上野撮影局はある意味で歴史の証人となった。今日、私たちが幕末の人物の「顔」を知ることができるのは、彦馬のような先駆者たちのカメラがあったからにほかならない。


化学テキストの出版――知識を「独占」しなかった科学者の精神

上野彦馬が単なる写真館の主にとどまらない存在であったことを示すのが、写真術に関する化学テキストの刊行である。

苦労して自ら習得した知識を、彦馬は惜しみなく公開した。撮影に必要な化学薬品の調合方法、現像のプロセス、器具の扱い方——それらを詳細に解説した書物を世に出したのである。

この行為の意味は大きい。知識は独占すれば商売上の強みになる。写真術の門外不出を守れば、競合他社が現れにくくなる。しかし彦馬はそうしなかった。

それはおそらく、彦馬の中に「写真という技術を日本全体に根付かせたい」という、科学者・教育者としての使命感があったからではないだろうか。一人の商人として利益を最大化するよりも、この新しい表現技術のすそ野を広げることに、彼は価値を見出していたのだろう。

現代のオープンソース文化や、科学者が研究成果を無償公開することの先駆けとも言える姿勢である。自分が苦労して開いた道を、後人のために舗装して残していく。そのような志が、上野彦馬という人物を単なる「写真師」以上の存在にしている。


日本初の従軍カメラマン――西南戦争と静かなまなざし

1877年(明治10年)、西郷隆盛率いる薩摩軍と明治政府軍が激突した西南戦争。この戦争において、上野彦馬は日本初の従軍カメラマンとして戦場に赴いた。

これは日本の写真史においても、ジャーナリズムの歴史においても、画期的な出来事だった。戦場をカメラで記録するという行為は、当時としては前例がなく、その意義も危険も計り知れないものがあった。

しかし彦馬が残した戦場写真には、ある際立った特徴がある。

死者の姿が、ほとんど撮影されていないのである。

戦場写真といえば、後の時代のものを見れば分かるように、しばしば死体や惨状がそのまま記録される。それが「戦争の現実」を伝えるためと正当化されることもある。しかし彦馬は、意図的にその選択をしなかった。

なぜか。

確かな記録は残っていないが、そのまなざしの背景を推察することはできる。彦馬は幕末から維新にかけて、多くの人物を撮影してきた。カメラの前に立つ人間の緊張と誇り、その存在の重みを、誰よりも知っていたはずだ。戦場に倒れた者たちもまた、かつては誰かの息子であり、父であり、友人だった。その亡骸をカメラに収めることへの、深い躊躇いと敬意——それが、彦馬の「撮らない」という選択に込められていたのではないだろうか。

また別の観点から見れば、これは写真が持つ「権力」に対する自覚とも読める。カメラは現実をそのまま写すように見えて、実は「何を撮り、何を撮らないか」という選択によって、現実を構成する。彦馬はその選択の重みを、本能的に理解していたのかもしれない。

静かに戦場を捉えた写真。そこに死者の姿はないが、確かに「戦争」はある。生き残った者たちの疲弊した表情、荒れ果てた土地、残された遺品——それらを通じて、彦馬は戦争の本質を、別の方法で伝えようとしたのではないだろうか。


現代に生きる上野彦馬の精神

上野彦馬は1904年(明治37年)に没した。66年の生涯だった。

彼が生きた時代は、日本が封建社会から近代国家へと脱皮する激動の時代であり、写真という技術もまた、珍奇な見世物から報道や芸術の手段へと変貌を遂げていく過程にあった。その最前線に、常に彦馬はいた。

彼の人生から学べることは多い。

必要な知識が手に入らないなら、自分で作る。前例がなければ、自分が前例になる。習得した知識は独占せず、次の世代に開く。そして表現には、倫理とまなざしを込める。

これらは写真術という特定の技術に限った話ではない。新しい技術や分野に挑む、すべての人間に通じる姿勢である。

AIや量子コンピューティングといった新技術が台頭する現代においても、「書物だけを頼りに牛骨を腐らせた青年」の精神は、驚くほど新鮮に響く。


おわりに

坂本龍馬の写真を見るとき、私たちはそこに龍馬だけを見る。しかしそのフレームの向こうには、悪臭に耐えながら化学薬品を自作し、奉行所に訴えられ、それでも諦めずにシャッターを押し続けた一人の男がいる。

その男の名を、上野彦馬という。

日本の写真史の出発点に立ちながら、科学者として、教育者として、そして一人の人間として誠実であり続けたこの人物の生涯は、時代を超えて私たちに問いかけてくる。

あなたは、自分の信念を持って、新しい時代をカメラに収める覚悟があるか、と。


参考:NHK「先人たちの底力 知恵泉」上野彦馬回より

上野彦馬

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竹 慎一郎

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