放送作家・劇作家 享年75歳 1934年11月16日〜2010年4月9日
井上ひさし|笑いと風刺で時代を彫った
国民的劇作家の生涯と代表作
いのうえ・ひさし/山形県東置賜郡出身/日本を代表する劇作家・放送作家・小説家
2010年4月9日、一人の偉大な文学者が世を去った。井上ひさし――その名を聞けば、『ひょっこりひょうたん島』の軽快なメロディーを思い浮かべる方も多いだろう。しかし彼の仕事はそれにとどまらない。戯曲、小説、エッセイ、社会評論と、縦横無尽に筆を走らせながら、常に「庶民の側」に立ちつづけた作家だった。
笑いの裏に鋭い批評精神を宿し、難解な歴史や社会問題を「やさしく、ゆかいに」語りかける――その独自のスタイルは、三谷幸喜や野田秀樹ら後続の劇作家たちに多大な影響を与えた。本稿では、波乱万丈の生い立ちから晩年の社会活動まで、井上ひさしの全貌を丁寧に振り返る。
基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 井上 廈(いのうえ ひさし) |
| 生年月日 | 1934年(昭和9年)11月16日 |
| 没年月日 | 2010年(平成22年)4月9日(享年75歳) |
| 出身地 | 山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町) |
| 学歴 | 上智大学外国語学部フランス語科卒業 |
| 主な肩書 | 放送作家・劇作家・小説家・随筆家 |
| 死因 | 肺がん(2009年10月に診断、翌年4月に死去) |
| 戒名 | 智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ) |
| 文学忌 | 吉里吉里忌(4月9日/2015年より命名) |
波乱の幼少期――山形から孤児院へ
1934年11月16日、山形県東置賜郡小松町に生まれた井上ひさし。父・修吉は薬剤師であり文学青年でもあったが、プロレタリア運動への関与による拷問の後遺症で脊髄を悪くし、ひさしが5歳のときに世を去った。
母は三人の子を育てながら様々な職を転々とし、やがて岩手県一関市へ移住する。しかし生活苦のため、ひさしは宮城県仙台市のカトリック系養護施設「光ヶ丘天使園」に預けられることになった。
施設での生活は容易ではなかったが、カナダ人修道士たちの献身的な姿に感銘を受け、洗礼を受ける。この孤児院での経験は、後に自伝的小説『四十一番の少年』に克明に描かれることになる。苦しい境遇の中でも、父が遺した蔵書を乱読し「神童」と呼ばれていたという少年時代のひさしの姿は、その後の旺盛な知的活動の原点と言えるだろう。
上智大学と浅草――笑いの原点
1953年、上智大学ドイツ文学科に入学(後にフランス文学科へ転科)。在学中、浅草のストリップ劇場で進行係兼文芸部員のアルバイトをしたことが、井上の笑いへの深い関心を育てた。浅草喜劇やコントとの出会いが、彼の文学観の核に「笑い」を据えることになる。
1958年、処女戯曲『うかうか三十、ちょろちょろ四十』で芸術祭脚本奨励賞を受賞。放送作家としての第一歩を踏み出した。卒業後も倉庫番をしながら台本を書き続けるという、まさに「遅筆堂」の名にふさわしい地道な創作生活を送った。
『ひょっこりひょうたん島』で全国区へ
1964年、NHK総合テレビの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』の台本を山元護久と共作する。「ドン・ガバチョ」や「博士」など個性豊かなキャラクターと、子どもから大人まで楽しめる軽快な笑い、そして社会風刺を織り交ぜた内容は空前の人気を博し、井上の名を全国に知らしめた。この作品は今日もなお「昭和を代表するアニメ・人形劇」として語り継がれている。

直木賞受賞と劇作の黄金期
1970年には戯曲『表裏源内蛙合戦』と『道元の冒険』を相次いで発表し、この2作で岸田戯曲賞を受賞。新劇界の「鬼才」としての地位を確立した。
1972年、江戸時代の戯作者への憧れを描いた小説『手鎖心中』が第67回直木賞を受賞する。笑いの中に人間の哀しみと社会批判を溶け込ませるという、井上文学の真骨頂がここに結実した作品と評される。
その後も精力的に作品を発表し、1982年には大長編小説『吉里吉里人』が完成。東北の一寒村が日本から独立を宣言するというユニークな設定のもと、中央集権や言語・文化の画一化への痛烈な批判を笑いで包んで描いたこの作品は、日本SF大賞・読売文学賞を受賞し、大きな話題を呼んだ。
主な代表作一覧
| 作品名 | 年 | ジャンル | 備考・受賞等 |
|---|---|---|---|
| ひょっこりひょうたん島 | 1964年 | 人形劇台本 | NHK放映、山元護久との共作 |
| 日本人のへそ | 1969年 | 戯曲 | 新劇界で高評価 |
| 表裏源内蛙合戦/道元の冒険 | 1970年 | 戯曲 | 岸田戯曲賞受賞 |
| 手鎖心中 | 1972年 | 小説 | 第67回直木賞受賞 |
| 天保十二年のシェイクスピア | 1973年 | 戯曲 | シェイクスピア全作品を江戸に翻案 |
| 吉里吉里人 | 1981年 | 小説 | 日本SF大賞・読売文学賞受賞 |
| 頭痛肩こり樋口一葉 | 1984年 | 戯曲 | こまつ座旗揚げ公演 |
| 父と暮せば | 1994年 | 戯曲 | 広島原爆を題材、6カ国語で翻訳 |
| 東京セブンローズ | 1999年 | 小説 | GHQ占領下の日本語政策を描く |
| ムサシ | 2009年 | 戯曲 | 英米公演も実現、晩年の傑作 |
こまつ座の設立と晩年の社会活動
劇団こまつ座の旗揚げ
1984年、井上は生まれ故郷の旧地名「小松町」にちなんで劇団「こまつ座」を旗揚げする。自ら座付き作家となり、『きらめく星座』『人間合格』『紙屋町さくらホテル』など多数の意欲的な作品を書き下ろした。こまつ座の公演は今日も続けられており、井上戯曲の精神を受け継いでいる。
遅筆堂文庫の開設
1987年、井上は自らの膨大な蔵書を故郷・川西町に寄贈し、図書館「遅筆堂文庫」を開設した。自ら”遅筆堂”と名乗るほど筆が遅いことで知られていたが、その蔵書の量は圧倒的であり、読書家としての一面が窺える。文庫の開設と同時に「生活者大学校」の開校も提唱し、校長として地域文化の振興に尽力した。
社会的発言と「九条の会」
晩年の井上は、文学活動にとどまらず積極的な社会発言でも注目された。国鉄民営化やコメ問題への批判的な論考を発表し、平和と憲法への強い信念を公言した。「九条の会」の呼びかけ人の一人として憲法第九条を守る運動に参加し、日本ペンクラブ会長(第14代)として言論の自由と平和のために声を上げ続けた。
主な受賞歴・栄誉
| 年 | 受賞・栄誉 |
|---|---|
| 1958年 | 芸術祭脚本奨励賞 |
| 1970年 | 岸田戯曲賞(『表裏源内蛙合戦』『道元の冒険』) |
| 1972年 | 第67回直木賞(『手鎖心中』) |
| 1981年 | 読売文学賞・日本SF大賞(『吉里吉里人』) |
| 2001年 | 朝日賞(知的で民衆的な現代史を総合する創作活動) |
| 2004年 | 文化功労者に選定 |
| 2009年 | NHK放送文化賞・恩賜賞日本芸術院賞 |
| 2010年 | 読売演劇大賞 芸術栄誉賞・山形県県民栄誉賞(没後) |
海外での評価と国際的な影響力
井上戯曲の影響は国内にとどまらなかった。代表的な戯曲『父と暮せば』は英語・ドイツ語・イタリア語・中国語・ロシア語・フランス語の6カ国語で対訳本が刊行され、広島の原爆をテーマにした普遍的なヒューマニズムが世界の観客の心を掴んだ。
また『化粧』『藪原検校』なども海外公演で高い評価を受けた。晩年の作品『ムサシ』は井上の死後、演出家・蜷川幸雄の手で英米公演が実現し、国際的にも一流の評価を確立している。
晩年・死去・そして「吉里吉里忌」へ
1日40本ものタバコを愛煙し、長年「喫煙と肺がんの無関係」を主張していた井上だったが、2009年10月に肺がんと診断される。治療を続けながらも2010年4月9日に75歳で永眠した。
その死を悼み、別役実は「国民作家の名にふさわしい」と述べ、三谷幸喜は「井上作品のあの深みと重みには同じ方向では勝てない」と語った。野田秀樹は「父のような存在。いつかライバルですと言ってみたかった」と追悼した。
2015年より、命日の4月9日は代表作『吉里吉里人』にちなんで「吉里吉里忌」と命名された。毎年この日、文学を愛する人々が井上ひさしの功績を偲んでいる。
まとめ――「むずかしいことをやさしく」の精神
井上ひさしは自らの創作の核心を「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに」という言葉で表現したと伝えられている。
孤児院での苦しい少年時代、浅草の笑いとの出会い、放送作家としての修業、そして劇作家・小説家としての頂点へ――その生涯は決して平坦ではなかった。しかし彼は一貫して「庶民の側」に立ち、笑いと愛情と批評精神を武器に、戦後日本の姿を鋭く、そして温かく描き続けた。
没後も上演され続ける戯曲、読み継がれる小説、語り継がれるエッセイ――井上ひさしの言葉は今も生きている。4月9日「吉里吉里忌」に、改めてその偉大な仕事に思いを馳せてみてはいかがだろうか。
参考:ウィキペディア「井上ひさし」、こまつ座公式サイト、川西町フレンドリープラザ、コトバンク等
※本記事は公開情報をもとに編集しています。

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